た    ち    つ    て    と 
 あ行    か行    さ行    た行    な行    は行    ま行    や行    ら行    わ行   参考文献 
 AI『竜の柩』  

体験ツアー■竜上19■

斜陽館で、東が蓉に、部屋に純を差し向けるから鼾の体験ツアーはどうかと、軽口を言った。

大黒天■竜下83■

インド神話のシヴァ神は、世界を破壊するときに、恐ろしい黒い姿をとるので、マハーカーラと呼ばれる。「マハー」は偉大なる、大きいという意味で、「カーラ」は黒い、暗黒、死を表す。これが仏教に取り入れられ、大黒天と訳された。中世以後、神仏習合の進展とともに、大国主の「大国」を「だいこく」とよむ音の共通から、大国主神と同一視された。

帝釈天■竜下83■

インド神話の代表的な神であるインドラが仏教にとり入れられたもの。仏法の守護神とされ、諸天中の天帝という意味で帝釈天と漢訳された。

ヒンドゥー教の神々が仏教に組み込まれ、それが中国に導入された時に、全て、帝釈天や毘沙門天などの天部に分類されたと虹人は説明した。

大社造り■竜上240■

大社造りは神明造りとともに神社建築のもっとも古い形式であって、出雲地方を中心におこなわれた。正方形平面に九本の柱が縦横三本ずつ建てられ、その中央の柱を他より太くしてこれを「心の柱」(神秘の柱)とする。心の御柱の東に板壁で間仕切りをつくるので、正面戸口から内殿はみえない。屋根は檜皮葺で反りをもち、床が高いのが特徴である。大社造りの古い遺構として1583年(天正11)の島根県神魂(かもす)神社本殿がある。

大聖(だいしょう)自在(じざい)歓喜天(かんぎてん)■竜下37■

インド神話のガネーシャが仏教に取り入れられたもの。日本では性神の面が強く表出している。双身の勧喜天像は、象頭人身の男女が立ったまま抱擁しているもので、夫婦和合をはじめ子授けの霊験が説かれている。民間信仰として栄え、奈良の生駒聖天(宝山寺)や浅草の待乳山聖天(まつちやましょうでん)などが有名である。

代田■竜下276■

東京都世田谷区代田には、ダイダラボッチが架けたという代田橋と、その足跡と言われる、長さ百間を超す巨大な足跡の形をした窪地があり、地名の由来となった。

ダイダラ法師■竜下276■

=ダイダラボッチ

ダイダラボッチ■竜下276・新下169■

ダダ坊、デイラボー、大太法師など多くの異名を持つ伝説の巨人。関東、中部地方を中心に広く分布している。多くは、この巨人の大足跡や、その足跡に水がたまってできた沼があるという水との関係が語られるが、富士山を背負おうとした伝説や山作りの際にこぼした泥が小山になったという山の生成に関係した伝説もある。ダイダラボッチの呼称については、貴人の尊称であるタラに由来するというが、話の伝播を担ったとされる鍛冶との関係から、タタラ(踏鞴)の転訛とする説もある。

虹人は製鉄との関連から、ダイダラボッチを、目一箇神や目一つ鬼、遮光器土偶と同じであることを示し、出雲から東北に落ちのびる際、タタラ技術を持った龍の一族の足跡がダイダラボッチ伝説として残り、龍との関連から水神伝説に変化したと説いた。

しかし、縄文時代を訪れた虹人は、地下王宮に閉じ込められていたイザナミが脱出し、ダイダラボッチ伝説になった可能性も示した。

隊長■竜上62■

加藤は南波を隊長と呼ぶ。

大日如来■新下219■

密教の中心本尊。

虹人は、エンリルと大日如来を比較した。日本には小さな田舎にまで大日如来を本尊にする寺があり、それだけ信仰心が強いように思われがちだが本当は逆である。アッカドでは首都以外にエンリルの神殿を許さなかった。神が実在するため、神の住まいする神殿を分散させず、権力者は自分の側にだけ神殿を建立したのだと言った。

ダーウィン■竜上34■

イギリスの博物学者。自然淘汰による進化論を唱える。

『東日流外三郡誌』には寛政十年の講義として紅毛人ダウイン説が載っている。ダーウィンの進化論「種の起源」が発表されたのは、これより61年もあとの話である。

高星(たかあき)丸■竜上37■

安倍貞任の子。中世北奥羽の豪族である安東氏は、高星丸の後裔と伝える。

タカオカミ■竜上277■

高オカミ(たかおかみ)神。貴船神社の祭神。『日本書紀』の一書で、イザナミがカグヅチを斬った際に生まれた神の一つ。別の一書では暗オカミ(くらおかみ)。『古事記』では、闇淤加神(くらおかみ)と記す。『豊後国風土記』や『万葉集』から、龍身ないし蛇身の水神と考えられる。「タカ」は尊称。

船林神社の祭神であるアハキヘワナサヒコノ命が、貴船神社の祭神でもあることから、虹人はアハキヘワナサヒコノ命を龍神と考えた。

高天が原■竜上125・126■

『古事記』における天上世界の神話的呼称。高天原は原初にすでにあったように書かれている。そこは天津神(あまつかみ)の居所であり、天照大神が支配者としてまつり上げられた場所であり、さらに天の岩屋戸神話の舞台もここである。高天原の天安河原(あまのやすのかわら)で、葦原中国の統治者の協議が行われ、瓊瓊杵(ににぎ)尊は高天原から日向に降臨する。

山田久延彦は、高天原=常世国=地球以外の小惑星と考え、須佐之男が天降った出雲に波の穂=ピラミッドを捜した。

高御産巣日神(たかみむすびのかみ)■竜上249・新下78■

日本神話の神。『古事記』において八百万神に先駆け、高天原に現われた五柱の神を別天津神と呼ぶが、高御産巣日神も別天津神(ことあまつかみ)の一神で、始原神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)に続いて現れた神である。高御産巣日神は、天孫降臨や、神武東征において、天照大御神とともに主要な神として位置づけられ、諸神に「命じる立場の神」として描かれている。高御産巣日神は「高天原系神話」に多数描かれるがこれは、次に出現する神産巣日神が「出雲系の神話」で指導的な神として描かれることと対照的である。本居宣長は、高御産巣日神と神産巣日神(かみむすびのかみ)について、万物を生成する「むすひ」の働きをつかさどる神であることを主張している。

虹人は、別天つ神を天の創造主ととらえている。高御産巣日神と神産巣日神の二神は、爆発した宇宙を膨大なエネルギーの渦に纏めた神であると考える。また、この高御産巣日神と神産巣日神、いわゆる結びの二神は、宇宙に存在する火と水とを結び付げて渦と成したと考え、このことから虹人は、「結び」が宇宙を意味する言葉であるととらえる。さらに、「結ぶ」とは、本来性質の異ったものを一つにして、新しいものを誕生させるという意味であり、日本には日常の中に宇宙の生成に関わる十字への信仰が残されていると語る。

高床式■竜上252■

掘立て柱建物のうち、地表からとくに高い位置に床を張ること。弥生土器や銅鐸に描かれた高床倉庫を典型とする。

大社造りの神社が、住居よりも高床式の倉庫に似ているというのは、牢獄をモデルにして天孫族によって作られたためだと虹人は考えた。

竹内(たけうち)巨麿(きょまろ)■竜上84■

1875-1965 竹内赤地三郎衛門の養子になり、竹内家伝来の神宝を相続した。昭和3年に『竹内文書』としてその一部を公開し天津教を興し布教活動にあたったが、昭和12年、不敬罪で起訴された。

竹内まりや■竜上238■

歌手。代表作は『シングル・アゲイン』『告白』『駅』。

竹内文書■竜上84■

竹内巨麿が公開した竹内家伝来と言われる古文書と神宝。古文書は武内宿禰の孫にあたる平群真鳥が神代文字を漢字仮名混淆文に翻訳した原本の写しという。

内容は原始神の宇宙創生から神々の地球降臨、人類の誕生、超古代文明の興亡を伝える一大叙事詩である。日本人はムー大陸に君臨していた人々の子孫で、大陸陥没後も世界の中心だったため、釈迦もキリストも日本に来て叡智を学んだと説く。

破天荒・荒唐無稽な内容を多く含み、昭和11年に狩野亨吉氏の文献批判によって偽書であると断じられている。

虹人は『竹内文書』のほとんどは新しく捏造されたものだが、内容にいくばくかの根拠があると睨んでいる。

キリストの墓があるはずだと訪れた戸来村には、その当時キリストに関する伝承がいっさい残されたいなかったが、その後続々とキリストとの関連を示唆する状況証拠が見つかった。

また、『竹内文書』には、迷ケ平には十和利山という三角形の綺麗な山があって、この麓にかつて華麗な都が栄え、アメノニニギノ天皇が遷都したという。この都一帯は天国とも呼ばれていたと書かれている。一方、イギリスのヘレフォード寺院に保管されている中世の世界地図には日本を天国と表記していることから、虹人は『竹内文書』のもっとも胡散臭い部分に証拠らしいものが出現し愕然となった。

『竹内文書』によると、かつて太平洋には高度な文明を誇る大陸が存在し、空を飛んだり、錆びない金属であるヒヒイロガネを使っていた。それが五千年前に沈み、大半の文明が壊滅し、わずかに前線基地のあった日本にだけ細々と文化が継承されたという。『竹内文書』の公開が昭和3年であり、チャーチワードが世界にこのムー大陸を紹介したのが昭和6年の3年も前のことである。

また、昭和4年には竹内の倉庫から『モーゼ十誡石』が発見されている。酒井が竹内にその存在を訊ねた半年後に、酒井の想像通りの石が出てきており、十誡の文章もいい加減で偶像崇拝が抜けている。完全に偽物だと分かるものを、神学校を卒業した酒井がどうして信用したのかという疑問について、虹人は、酒井が『竹内文書』の根本を極端に信頼していたためと考える。

酒井は、葦嶽山がピラミッドであると発表し、講演の中でピラミッドの条件を詳しく並べ立て、発掘調査で予言どおりの石組を発見した。酒井は、ピラミッドは墓ではなく神殿であると唱え、拝むための祭壇や鏡石があるはずだと力説すると、実際に隣接した山から人工物と思われるそれらが発見された。その後で『竹内文書』に22300年前に弥広殿作尊(やひろとのつくりのみこと)天皇が拵えたと記されていると発表した。虹人は、年代や天皇の名前はアテにできないが、何らかの根拠をもとにピラミッドを発見し、それを『竹内文書』の宣伝に利用したと考えている。

竹内はキリストの墓を発見した三日後に迷ケ平にでかけ、十和利山を日本最古、五万年前に作られたピラミッドであると断定した。こうして十和田湖と迷ケ平を中心とした十和田文化圏の骨子が明確になっていったと虹人は説明した。

また、十和利山にピラミッドが建設されたのが五万年前で、ムー大陸が沈んだのが五千年前であるという『竹内文書』の記述が、アソベ族が五万年前、ツボケ族が五千年前にやってきたとする『東日流外三郡誌』とそっくりだと東が指摘した。しかし虹人は五という数字はキリもいいし簡単に思いつきやすい数字だと言った。(キリストの墓迷ケ平ムー大陸モーゼ十誡石ピラミッド参照)

建角身(たけつぬみ)命■竜上128■

日本神話の神。「賀茂の猛々しい者」という意。『姓氏録』には神魂命(かみむすびのみこと)の孫とある。『日本書紀』には賀茂県主(あがたぬし)家の祖とある。賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨社)の祭神で、社伝によると、神武東征の折、高木(たかぎの)大神(おおかみ)が使わした八咫烏(やたがらす)が賀茂建角身命とされる。賀茂伝説によると、賀茂建角身命は神武東征の先導を務めた後、大和の葛木山(かつらぎさん)の峰に宿り、その後、賀茂川を上り、久我の国の北の山麓(賀茂の大宮の森)に居して、玉依姫(たまよりひめ)と玉依日子(たまよりひこ)を儲けたという。(別雷神参照)

虹人は、玉依毘売神社が皆神山の麓にあることが、山田久延彦氏が皆神山を日本のピラミッドと見做す根拠の一つとなっていると言うと、南波は自分の田舎の賀茂神社にも、玉依毘売が祀られていたと話す。虹人は、賀茂あるいは加茂また鴨とも表記する系列神社は、すべて祭神として建角身命、玉依毘売命、別雷神を祀っていると言う。

竹野屋旅館■竜上238■

虹人たちが出雲で泊まった旅館。竹内まりやの実家。

建御雷神■竜上149■

『日本書紀』では武甕槌神(たけみかづちのかみ)・武甕雷神(たけみかづちのかみ)。神秘的で勇猛な神の意。『古事記』には、またの名として建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)とあり、これは美称のタケまたトヨと、刃物で物を断ち斬る音を現わす「フツ」からなる神名。『古事記』によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が伊邪那美命(いざなみのみこと)の死因となった迦具土神(かぐつちのかみ)を十拳(とつか)の剣(つるぎ)で斬り殺したとき、剣の鍔(つば)に着いた血液が岩群に「走りつきて」建御雷之神が成ったとされる。

建御雷之神は、国譲りの際、『古事記』では天鳥船(あまのとりふね)神とともに、『日本書紀』では経津主(ふつぬし)神とともに、大国主命のもとに遣わされた。そして建御雷之神は、大国主命の子である建御名方神(たけみなかたのかみ)と力競べをして勝ち、建御名方神を諏訪湖まで追い詰めて服従を誓わせる。これにより大国主命も服従を近い、葦原の中つ国は天孫族の支配する国となった。また神武天皇の東征際にも、建御雷之神は神剣フツノミタマを降し与えて神武軍を救う。歴史的には、中臣氏が祀っていた神であるが、藤原氏の台頭により鹿島神宮の祭神となる。

大和岩雄氏は、『古事記』がタケミカヅチという神を「建御雷」と「建甕槌」の二神として記載していることを指摘している。「建甕槌」の系譜を『古事記』では、大物主→櫛御方命→飯肩巣見命→建甕槌→意富多多泥古(おおたたねこ)としており、建甕槌神は、三輪君の祖・意富多多泥古の父となっている。大和氏は、『土佐国風土記』逸文所引の『多氏(おおし)古事記』の三輪山伝説や、『常陸国風土記』那賀郡のクレフシ山伝説などから見て、建甕槌を多氏系の甕(みか)神と考えている。一方、国譲り神話で活躍した建御雷神は机上で作られた神であり、藤原・中臣氏が鹿島神宮の祭祀氏族になるや建甕槌を建御雷神に変えたと推測している。藤原・中臣氏がタケミカヅチを氏神としたのは、小忌であった中臣連が大忌に成り上がったときに、大忌であった多氏の祀っていた建甕槌神を、自家の氏神として取りこんだためと述べている。

建御雷神と別雷神とは、建と別の違い、祀られている神社の違いから一般には別神と考えられている。しかし虹人は以下の理由から、建御雷神と別雷神が同一神である可能性を指摘している。建御雷神を守護神とする藤原氏が、別雷神の母である玉依毘売命と混同される玉取り伝説と深い繋がりがあること。さらに建御雷神は、天の鳥船という乗り物と必ずワンセットになっており、別雷神は八尋屋を破って昇天した神であことである。

さらに虹人は、諏訪明神の化身である甲賀三郎の妻の名が春日姫であり春日大社に繋がる娘であることから、建御名方神と玉依毘売命との政略結婚が行なわれたと推測する。つまりこの雷神の最初の名は別雷神だったが、建御名方神が恭順の証として玉依毘売命との結婚を強制されると、別雷神にとって建御名方神が義理の父親となったため、「別」雷神から「建御」雷神へと名が変わったと考察する。(別雷神玉依毘売参照)

建御名方神■竜上149・256■

建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)、あるいは南方刀美(みなかたとみ)という。日本神話の神の名。諏訪大社の祭神。『先代旧事本紀』によれば、建御名方神は大国主命と高志沼河姫(こしぬなかわひめ)との子とされる。『古事記』の国譲り神話によると、高天原から遣わされた建御雷神(たけみかづちのかみ)と力競べを行うが、若葦を取るようにへし折られて投げられてしまい、信濃の「州羽(すわ)の海」まで逃げて諏訪に留まることを告げ国譲りを誓ったという。一方『日本書紀』の国譲りには、建御名方神は登場しない。

諏訪明神としての建御名方神は、龍蛇神としての色彩が濃い。12月下旬に行なわれる「御室(おむろ)神事」は、土室(つちむろ)の中に、茅で作った三体の蛇を祀るものであり、冬眠中の蛇の祭祀と考えられる。また、元日に本宮前の御手洗川贄の氷を割って、二匹の蛙を射る「蛙狩の神事」は、この蛇神に供える贄(にえ)と思われる。松前健氏は、諏訪明神のシンボルとして神輿に立てる薙鎌(なぎかま)の「なぎ」を、ナーガ、ナーギに由来すると考えている。これはインド、東南アジアでは、龍や蛇を現わす語であり、日本においては蛇体の水霊を表す古語である。諏訪縁起を語る甲賀三郎伝説や『諏訪大明神画詞』においても、明神は大蛇として登場する。

皆神山の山頂にある熊野出速雄神社で、虹人は、熊野出速雄が建御名方神の子供であり、建御名方神は諏訪湖の主の龍神であると説明する。

虹人は、大国主命の息子である建御名方神とアジスキタカヒコネ神が龍神であることから、大国主命が龍の一族であると推測し、大国主命が祀る神が龍であったことは確実であろうと考察する。(玉依毘売参照)

ダーサ■竜下50■

前1500年ころからインドに進入したアーリヤ人と敵対した先住民。『リグ・ヴェーダ』によると、ダーサは黒い肌をもつ鼻の低い種族で、プル(町)に住み、異様な言語を話し、アーリヤ人の神々を崇拝せず、男根崇拝など奇妙な風習をもっていたという。このプルをインダス文明の都市、ダーサをその都市の住民とみる史家もいる。

太宰治■竜上10■

1909-48 青森県出身の小説家。生家は津軽屈指の素封家。『斜陽』で流行作家となるが、『人間失格』執筆後入水自殺を遂げる。

虹人たちが津軽で宿を取った斜陽館は太宰の生家である。(斜陽館参照)

大宰府の天満宮■新下111■

福岡県太宰府市に鎮座する菅原道真を祀る神社。清涼殿への落雷から醍醐天皇の死にいたる一連の異変が、大宰府で憤死した道真の怨霊によるとされたために祀られた。この平安朝を通じての最大の祟り霊は、反転して強力な守護神に変じ、やがて学芸の神としての天神信仰が形成された。

虹人は、道祖神のように、本来もっていた意味がすり替えられるという例として、大宰府天満宮と白峰神宮を挙げた。

ダスユ■竜下52■

=ダーサ。(ダーサ参照)

タタラ■竜下74■

日本古来の代表的な製鉄方法。粘土でつくられた高さの低い角形の炉で、木炭を燃料として砂鉄を製錬する原始的なもの。

虹人は、タタラで鉄を精錬するときにできる鉄屑をアラということ、ハバキもフイゴで空気を送り込む音からきたとする研究者もいること、また、出雲や東北に古代のタタラ跡がいくつも発見されていることから、アラハバキと鉄との関連を説いた。

辰子姫■竜上48■

田沢湖は、別名辰子潟とも言い、その由来を伝える湖水の主、美少女辰子姫の伝説が残る。辰子姫は現在、御座の石神社にまつられ、潟尻には「たつこの像」がある。

龍の子太郎■竜上156■

泉小太郎伝説が童話になったもの。(泉小太郎伝説参照)

多都比姫命(たつびひめのみこと)■竜上44■

岩木山神社の祭神。

大国主命が津軽に来て、土地の女神である多都比姫命と結婚し、力を合わせて津軽を開いたという伝承による。多都比姫命の正体は龍。(岩木山信仰参照)

伊達政宗■竜上94■

1567-1636 戦国末期から江戸初期の大名。米沢城主、のち仙台城主。仙台藩祖。米沢城主伊達輝宗の子。母は山形城主最上義光(よしあき)の妹。幼名梵天丸。

虹人は偽書作りの例として、伊達政宗が徳川打倒の野望の意思を表明する手紙を挙げた。手紙が偽物で野望も作りものであるからといって、伊達政宗の存在までも否定されるわけではないのに、『東日流外三郡誌』や『竹内文書』の場合はその奇妙な論理がまかり通っていると批判した。

ダーナヴァ竜■竜下52■

『リグ・ヴェーダ』に出てくる力に傲ごりわだかまるヴリトラ。インドラに殺される。

ダニエル■新下238■

旧約聖書『ダニエル書』の主人公。捕囚としてバビロンに移され、ネブカドネザル二世の宮廷で文学と言語を学んだ。知恵と理解にすぐれ、王礼拝を拒否して獅子の穴に投げ入れられるが、無傷のまま救出される信仰の勇者として知られる。

必ずバビロニアが滅んで、イスラエルの民が許される日が来るという預言を伝える役目を与えられたのがエゼキエルとダニエルだった。

谷崎潤一郎■竜下151■

小説家。代表作は『刺青』『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』。

谷崎潤一郎の小説に『鮫人』がある。宗像は谷崎の愛読者で、虹人の名前の由来を、頭がよくなるように中国の神である鮫人から名前を借りたものだと、答えていた。

ダーヌ■竜下50■

『インドラの歌』に出てくるヴリトラの母。

ダビデ■新下225■

イスラエル・ユダ複合王国の王。ソロモンの父。在位前997年頃―前996年頃。南は紅海から北はユーフラテス川に達する大帝国を建設し、この成功を背景にダビデは契約の箱をエルサレムに搬入し、イスラエルの神ヤハウェが、エルサレムとダビデ家を永遠にイスラエルの首都と王家に選ぶ約束をしたと主張した。

虹人は、ヤハウェが第二次バビロニア帝国の消滅に関係していたという痕跡はなく、それよりもヤハウェはイスラエルの民の力を大きくするほうに精力を注いでいたのだと語った。

ダビデの星■竜上85■

=六芒星。(六芒星参照)

玉子神社■竜上261■

船通山の麓にある神社。古い時代に王子神社と改名している。

虹人は、他の王子神社が速玉之男命(はやたまのおのみこと)を祀るので、ここも同じだと推定した。

玉取り伝説■竜上147■

藤原一門に残された伝承。不比等の子房前(ふささき)は、生母が讃岐の志渡の浦の海女だと知って追善に訪れる。すると海女の霊が出現し、母だと名乗って由来を語った。不比等の妹は唐の玄宗皇帝の妃となった。妹から贈られた宝珠を、不比等は龍に奪われてしまった。宝珠を取り返しにこの浦まで来た不比等は、海女と契り男子をもうけた。その子を大臣にするという約束によって、海女は身を捨てて竜宮から宝珠を取り戻した。その海女の子が房前で、志度寺は不比等が海女を弔うために建立したものという。

玉取り伝説はしばしば玉依毘売と混同されると虹人は指摘した。

玉依毘売(たまよりひめ)■竜上53・127・128・150-157■

紀・玉依姫(たまよりひめ)。『記紀』、『風土記』に登場する女性の名。

『古事記』によれば、玉依毘売命は海神(わたのかみ)の娘で、豊玉毘売命の妹にあたり、鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命の妃となる。姉の豊玉毘売命は、産屋でワニになった姿を、夫である火遠理(ほをり)命に見られたのを恥じて綿津見(わたつみ)国に帰り、その御子の養育を玉依毘売命に託す。玉依毘売命は後に、養育した子である鵜葺草葺不合命の妃となり、五瀬命・稲冰(いなひ)命・御毛沼(みけぬ)命・神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)命の四神を産む。末子の・神倭伊波礼毘古命は、初代天皇とされる神武天皇である。

『山城国風土記』逸文の「賀茂神社縁起」の玉依日売は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を父とし、伊可古夜日女(いかこやひめ)を母とする。ある日、玉依日売が川遊びをしていると丹塗矢(にぬりや)が流れてきたので、それを持ち帰り床辺に挿しておくと、丹塗矢と化していた火雷(ほのいかずち)神に感精して、賀茂氏の祖神・賀茂別雷命(かものわけいかずちのみこと)を産んだ。これと同様の伝承が松尾大社の縁起にもあり、これによると別雷神の父は、松尾大社の祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)であるとされる。大山咋命は鳴鏑(なりかぶら)の矢を持つ神であるが、鳴鏑(なりかぶら)の矢は本(もと)の部分に赤うるしを塗るため丹塗矢に同じとされるためである。

玉依毘売というのは特定の神をさす固有名詞ではなく、普遍的な意味を持つ名称である。玉依毘売の「玉」は霊、神霊のことであり、「依」は寄り付くことを意味する。なわち神霊が懸依する女性、巫女を表す語である。

山田久延彦氏は『真説・古事記』のなかで、常世国を天つ神の本拠地である地球外の小惑星とし、波の穂を人工造山であるピラミッドであるとする仮説を立てた。波の穂を踏んで常世国に渡ったとされる御毛沼命(みけぬのみこと)は、玉依毘売命の子供であり、玉依毘売命のもう一人の子どもである別雷神も、八尋屋の屋根を突き破って天上に昇ったとされる。東は、玉依毘売命の息子がふたりともピラミッドを利用して天上に行っていることは、偶然にしてはできすぎだと言う。

皆神山の麓に玉依毘売命を主祭神とする玉依毘売命神社があることについて、虹人は、建御名方神を破った建御雷神が建御名方神の監視役となり、母親の玉依毘売命も信濃に付き添ってきたと解釈する。さらに、甲賀三郎伝説から、建御名方神と玉依毘売命との間に政略結婚が行なわれたと推測する。(建御雷神別雷神参照)

玉依毘売神社■竜上106・127・159■

皆神山の麓にある神社。玉依毘売を主祭神にしている唯一の神社。建御名方神が合祀されている。

多聞天■竜下173■

毘沙門天

多羅尾伴内■竜下38■

片岡千恵蔵主演の映画『七つの顔』の主人公。

虹人がヴィシュヌ神のトリックスター的な性質を説明するために持ち出した例。

ターリー■竜下47■

インドでもっとも一般的な定食。大きな皿にチャパティとライスを盛り、その周囲に二、三種類のカレーやダール、インド風の漬物やヨーグルトを添える。

ダール■竜下47■

インド料理の豆のスープ。

top


地下王宮■新下96■

徐福が残したと伝えられる『宮下文書』によると、富士山の地下に王宮が建設されていたという。

千木■竜上243・竜下59■

大棟の上にあげられた、X字形に交叉する組木。現在では神社建築を象徴する一つの要素となっている。

虹人は千木を牡牛の角と見た。

血の池■新下135■

血の穢れゆえに女人が堕ちる地獄。

鎌倉時代あたりから黄泉の国イコール地獄という概念が出来上がった。針の山や血の池が本当にあると思わないから、それが災いして黄泉の国も想像の産物だと片付けられてしまうと、虹人は言った。

チパンル■竜上37■

『東日流外三郡誌』によれば、津軽の古名はチパンルといい、黄金の国ジパングとはチパンルから派生したという。

チャイ■竜下194■

トルコ語でミルクティのこと。

チャイハナ■竜下194■

トルコ語で日本の喫茶店に相当。

チャーチワード■竜上87・新下74■

1852‐1936 インドに駐留したイギリスの軍人。インドの寺院で粘土板に記された古代の記録を発見し、五万年前に高度な文明を誇ったムーと呼ばれる大陸が太平洋上にあったことを解読した。1926年『失われた大陸ムー』を著し、仮説であったレムリアを、古代伝承に従ってムーと呼び直した。(ムー大陸参照)

チャパティ■竜下47■

インド料理。小麦粉を溶いて薄いお好み焼き風に焼いたパン。

チャンダとムンダ■竜下44■

ドゥルガーと戦った二人のアスラ。チャンダとムンダの姿を見るとドゥルガーの顔は怒りのために黒くなり、額からカーリーが出現した。

中尊寺の金色堂■新上207■

岩手県平泉町の中尊寺にある小型の一間四面堂。国宝。清衡晩年の1124年(天治1)に造立され、清衡没後四代にわたって一族の墓堂となった。中尊寺は、法華経にもとづいて地上極楽の理想を実現しようとしたものであり、皆金色というのもその地上極楽を現成するためのものだったと考えられる。

現在中尊寺に残るものは金色堂と経蔵の二つだけであり、金色堂が残されていなければ平泉の黄金文化を信じられたか疑問だと、虹人は語った。

チョロンギー■竜下32■

インド、カルカッタ一の繁華街。

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津軽王国■竜上13・36・48■

『東日流外三郡誌』に記されている、安倍一族によって津軽に築かれた王国。

およそ五万年前、中国大陸からアソベ族が津軽に漂着し、岩木山の麓に定住した。五、六千年前に、中国から新しい漂着民ツボケ族がやってきて、初めはアソベ族と激しく闘ったがやがて和解し紀元前1000年頃には亀ヶ岡に代表される古代文化を形成した。紀元後3世紀、畿内には邪馬台国が勢力を振るっていた。そこへ、神武率いる日向軍が、出雲を平定した後に侵攻した。邪馬台国の国王である安日彦と長髄彦は津軽に落ちのびた。長髄彦は津軽を制定し新たにアラハバキ族を名乗った。安倍貞任は長髄彦の血を継ぐアラハバキの王であり、前九年の役で無残な最期を遂げたが、後三年の役の後でふたたび東北の支配は安倍一族に戻された。津軽には貞任の遺児高星丸が安東を名乗り君臨し、二人の従兄弟は力を合わせて国力の増大を図った。十三湊と平泉は中国大陸との貿易を基盤に大和朝廷にも負けぬ文化国家に成長した。十三湊には外国船が頻繁に出入りし、福島城下には異人館が軒を連ね、数百件の遊女宿、キリスト教の教会まで建設された。だがその栄華も興国2年(1341)十三湊を襲った大津波によって壊滅したという。しかし、この津軽王国の存在は、ロマンであって史実ではないと主張する学者が大半である。

龍が奉納されていた神明宮から金木町に帰る途中、東は古代津軽王国と龍伝説が残る一帯がピタッと重なると指摘した。

津軽開発■竜上16・28■

宗像が津軽に有していた山を買ったというダミー会社。半年ほど前に設立された会社で実績はない。

東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)■竜上13■

江戸末期、安東一族の末裔の秋田孝季と和田長三郎が、古代津軽の歴史を伝えるため、各地の伝承を収集して編纂したという。超古代の津軽のアソベ族、ツボケ族、アラハバキの伝承をはじめ、大和朝廷の抗争や安倍氏の歴史が記されている。(津軽王国秋田孝季参照)

月■新下42・257■

龍や牡牛の一族の母船。月の語源はシュメール語で月の都を意味する「ィツキ」。月にはイザナギとヒルメが暮らしている。ヒルメはイザナギの意思を受け継いで、月を接近させてムーを沈めた。虹人がシュメールを訪れた当時、接近した月は、見慣れている月の三、四倍の大きさに見えたため、虹人たちは最初自分たちのいる星が地球ではないと考えたのだった。

月読神(つくよみのみこと)■新下255■

紀・月神、月弓尊(つくゆみのみこと)、月夜見尊(つくよみのみこと)、月読尊(つくよみのみこと)。名義は農耕、漁猟の暦をつかさどるため月齢をかぞえる神、転じて単に月の神の意。『古事記』によれば黄泉国から帰った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が禊(みそぎ)をしたときに、天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)とともに生まれた三貴子の一人で、イザナギが右の目を洗った時に成りいでた。月読命は、イザナギに夜(よ)の食国(をすくに)を治めるように命じられる。『日本書紀』にはイザナギ、イザナミ両神からの胎生、あるいは白銅鏡(ますみのかがみ)からの化生の伝えもある。また食物神である保食(うけもち)神を殺害してアマテラスを怒らせ、日月が昼と夜に離れ住む因を作ったとの伝えもある。

虹人は月読神の「ヨミ」を、黄泉の国の「ヨミ」であると考える。黄泉とは地底湖のことであり、地の闇に空いた空洞に存在するものである。一方、月は龍や牡牛一族の母船であるので、月の内部には空洞があることになると虹人はいう。また、月の語源はィツキであり、ィツキとはシュメール語で月の都のことであることから、月読神とは、月の地底に存在する町の支配者という意味になると語る。

角■竜下62■

神には角が生えていた。牡牛にも龍にも角があり、もともと同一の種族と言える。鬼にも角があり、昔から角は魔人の象徴であるとともに、知恵を表わす象徴でもある。さらに角をもつことと、空を飛ぶことはワンセットであると虹人は考えた。

ツボケ族■竜上36■

『東日流外三郡誌』には、五、六千年前に中国からツボケ族が津軽にやってきて、先住民族のアソベ族と激しく闘ったがやがて和解し、紀元前千年頃には亀ヶ岡に代表される古代文化を形成するまでに至った、と記されている。

都母(つぼ)の石碑(いいぶみ)■竜上208■

青森の野辺地に残されている、「日本中央」と文字が刻まれた石。坂上田村麻呂が刻んだと伝えられているが、田村麻呂はこの地まで来ていないので、実際に刻んだのは文屋綿麻呂と考えられている。この碑のことを鎌倉の公家や武将たちも知っており、歌に詠み込んでもいる。

『日本中央』というのが間違いであれば、蝦夷の無知や傲慢を嘲笑したり、間違いを指摘するはずなのに、平然と認めているのは、その当時青森がまさに日本の中央であったに違いないと、宗像はアクトナインのメンバーに向かって言った。石碑にある「日本」は、ニホンではなくヒノモトと読むべきで、当時、日向一族が名乗ったニホンと、国を追われた出雲一族が用いたヒノモトの二つの国家に分断されていたのだと説いた。(ヒノモト参照)

壺を持った女神■新上258■

マリ遺跡から出土したイシュタルの像を考古学者たちは『壺を持った女神』と呼んだ。アッシェルという遺跡から発掘された像も、帽子や箱枕などの装身具が一致した。つまりこれらはイシュタルの特徴を表わすものだ。

考古学者たちは、誰が見ても奇妙な帽子や箱枕に目を瞑り、あっさり『壺を持った女神』と片付けてしまうと、虹人は批判した。

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ティグリス河■竜下196■

トルコ西部の山岳地帯に発してイラクにはいり、クルナでユーフラテス河に合流しシャット・アルアラブ河となるまでの全長1900kmの河。ティグリス・ユーフラテス両河流域のメソポタミアに人類最古の文明が繁栄した。当時は海岸線が今よりも内陸に入り込んでおり、ティグリス・ユーフラテス両河は合流していなかった。

デイリー・テレグラフ■竜上327■

ギルガメシュ叙事詩の残りの文書発見に対して、ロンドンの「デイリー・テレグラフ」紙が巨額な賞金を提供すると名乗り出た。第一発見者のスミスは再び奇跡を引き起こし、無数の粘土板の中から目的のものを見いだした。

鉄を生みだした帝国■竜下204■

アンカラ大学でヒッタイト学を専攻していた大村幸弘の著作。サブタイトル「ヒッタイト発掘」。NHKブックスとして日本放送出版協会より出版。第三回講談社ノンフィクション賞受賞。

アラジャホユックこそが、文書に記されていたアリンナであり、ヒッタイト時代の鉄はここで生産されていたという考証がなされている。

手長・足長■竜上126■

=手名椎、足名椎。

手長神社■竜上267■

諏訪大社の周辺にある手名椎を主神とする神社。

山田久延彦氏は、出雲に手名椎・足名椎を祀った神社が見当たらず、諏訪大社周辺に手長神社があることを根拠に「東海出雲説」を唱えた。(東海出雲説参照)

手名椎・足名椎■竜上126・267■

紀では、脚摩乳(あしなづち)、手摩乳(てなづち)と表す。櫛名田毘売(くしなだひめ)の両親。『古事記』では、国津神である大山津見神(おおやまつみのかみ)の子であると、足名椎が名乗っている。神名の意味については、「足(手)+ナズ(撫)+チ(精霊)」と理解し、愛娘を慈しみ撫でるという意味であるとされる。本来の神格については諸説があり「足無しの精霊」で蛇を意味し、水の神の竜神信仰に基づく国土神の名とする説、また、アシナは浅稲(アサナイ)の約で晩生の稲の霊とし、テナは早稲(トイナ)の約で早稲の霊とする解釈もある。『古事記』では、須佐之男が櫛名田毘売と結婚した際、足名椎に稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみかみ)の名を授けたとある。一方、『日本書紀』本文では、手名椎・足名椎の二神に、稲田宮主神の名を与えたとあり、また一書では手名椎の名を稲田宮主簀狭(すさ)之八耳神と記している。(須賀八耳神参照)

虹人は、出雲の船通山の登り口に、手名椎・足名椎を祀った神社があることを発見する。これまで、この二神を主神とする神社は出雲にはないと言われ、それを謎として山田久延彦氏は東海出雲説を唱えたが、出雲に二神を祀った神社があれば、その最大の根拠はあっさりと崩れることになると虹人は言う。

デニケン■竜上123・276・竜下48・85・87■

エーリッヒ・フォン・デニケン。1968年に出版された処女作『未来の記憶』(邦訳は松谷健二、角川書店)によって、人類の租先は宇宙人の訪問を受け、彼らの協力によって文明を築きあげたという説を発表した。

デリー■竜下32■

インドの首都。

テリピヌ■竜下222・新上127■

ヒッタイトの天候神。テリピヌが突然地上から姿を隠し地下に潜ったため、地上は荒廃した。女神ハンナハンナに呼び出された蜂がテリピヌを刺して起こした。初めは怒り狂っていたテリピヌも、地上の荒廃を知るとふたたび地上に戻り、地上はまた平和になったという、岩戸隠れに似た神話である。

虹人はテリピヌ神話を、核戦争で地上が荒廃し、テリピヌがカッパドキアの地下都市に逃れたことを表わすと考えた。シュメールの麦の収穫量が4000年前辺りに落ち込んでいる。テリピヌ神話で畑の種が実を結ばなくなったというのは、この収穫量の激減を意味しており、その理由を、農業を指導していた龍一族がシュメールから脱出したためか、核戦争で土壌が駄目になったためと考えた。

デリンクュ■竜下224■

カッパドキアの地下都市の中で、一般公開されているものではデリンクュが最も規模が大きい。

天国■竜上86■

一般に、天上にあるとされる神的世界をいう。比喩的に至福の理想郷=楽園の意で用いることもあり、その場合はしばしば地獄と対比される。特にユダヤ教、キリスト教、イスラムの伝統における他界観念として重要である。また、エデンの園とも同一視されるパラダイスや、神の国と同じ意味で使われることも多い。

『竹内文書』によると、十和利山の麓には華麗な都があって、その都一帯は天国と呼ばれていたという。

ヘレフォード寺院に保管されているハーディンガムの地図は、九十度傾いて東が上にあり、日本をヘブンと表記している。

天孫族■竜上■

記紀神話で、高千穂の山に降臨した天日高(あまつひこ)日子番能(ひこほの)邇(に)邇芸命(にぎのみこと)一族のこと。天日高日子番能邇邇芸命は、天照大神の孫神に当たるため天孫族と呼ばれる。

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トヴァシュトリ■竜下49■

インド神話の工巧神。インドラはトヴァシュトリの作った武器ヴァジュラ(金剛杵)を投じて、水をせき止める悪龍ヴリトラを殺す。

東海出雲説■竜上122■

山田久延彦が『真説・古事記』のなかで唱えた説。神話に出てくる出雲はもともと東海地方にあって、現在の出雲とは別の土地だったという考え。手長・足長を祀る神社が出雲にはなく、諏訪湖のそばにあること。高志が越、すなわち新潟県だとすると出雲と離れすぎていているが、長野なら簡単に解決すること。皆神山の麓に玉依毘売神社があること。皆神山の山頂の熊野出速雄神社に少名毘古那が合祀されていることなどを根拠とする。波の穂から常世国に旅立った神で有名なのは、少名毘古那と御毛沼命の二人で、玉依毘売は御毛沼命の母親である。

洞窟■竜上78■

髭面の男の荷物にあった古地図の写しには、靄山の近くから金木町の方向に十三湖をまわり込む形で洞窟が書き込まれていた。日吉神社の周辺には何本もの太い洞窟が交錯しており、途切れた端には必ず鳥居が描かれ、入り口を示していた。入り口は、靄山の麓の鳥居から考えるとアラハバキ神社のことで、このため津軽開発はアラハバキの伝承が残っている山を買い占めたのだと虹人は考えた。

洞窟の壁■新下287■

鹿角は、現代に戻るためにカプセルに乗り込む虹人に「向こうに着いたら洞窟の壁を見てくれ」と言い残した。

道祖神■新下107・114■

道祖神は、塞神、岐神、衢神などとも呼ばれ、村の境域に置かれて外部から侵入する邪霊、悪鬼、疫神などをさえぎったり、はねかえそうとする神である。

『記紀』によれば、伊弉諾尊がこの世と黄泉国を分けるために黄泉比良坂に引き塞いだ千引石が「塞坐黄泉戸大神」であり、伊弉諾尊が「此よりな過ぎそ」といって投げた杖が「岐神」であるされる。

道祖神は古くから、道先案内者である猿田彦と同一視されたり、境に祀られることが多い地蔵や、庚申、荒神、地神、子安神、金精神、姥神などと習合して複雑な信仰形態をもつ。

また、道祖神の表徴も、陰陽石や丸石などの自然石を祀ったものから、男女二神の結び合う姿を彫り込んだ双体道祖神までと多様である。

道祖神は、塞坐黄泉戸大神(さやりますよもつとのおおかみ)という名が示すように、黄泉の国と現世との間に、戸を立てて塞いでくれる神だと虹人は説明する。道祖神はいわば結界であり、必ず村と外との境目に設置された。今のように交通網や情報網が発達していない時代には、外と内の概念がはっきりと区別されており、内に暮らす者は仲間であって、外にいるものはすべてが敵に等しいものであった。だからこそ、外敵を追い払ってくれる神の存在は重要だったと語る。

虹人は、道祖神を龍一族の神であったと考える。その理由は、道祖神が福の神に祭り上げられていること、道祖神信仰の盛んな土地が龍一族の勢力範囲に多いこと、イザナギの苦境を救った神であるのに大きな神社に祀られていないことである。そして、牡牛の一族はその神の祟りを恐れ、逆に自分たちの福の神にすりかえて拝むことにより、呪いから逃れようとしたと言う。ところが、年月が経るにしたがって福の神としての機能にも変化が生じ、形の似ているのが災いして、今度は性神にまで貶められたと語る。

道祖神から発展した金精様を淡島明神といい、淡島明神が祀っているのは少彦名神であると虹人は言う。また、男根の形をした石棒が古くからアラハバキと言われていることから、龍一族が石棒をアラハバキと言い習わし、そしてその実体は少彦名だったと語る。少彦名がなぜ塞の神となる理由は、龍一族にとっては、少彦名神は文字通り外敵から身を守ってくれる存在だったからと推測する。

さらに虹人は、ストーンサークルを縄文人の拵えた道祖神であるという。最初に石棒の形をした少彦名神の象徴が造られ、次にそれと相対する女隠の形をした岩が導かれたと考える。(ストーンサークル参照)

ドゥバヤジット■竜上312・竜下295■

アララト山の登山口にあたる村。

隆一はここから信子に手紙を書いた。

ドゥルガー■竜下44■

ヒンドゥー教の戦いの女神。シヴァ神の妻。マヒシャによって天界を追われた神々は、シヴァとヴィシュヌに助けを求め、怒った両神の口から発せられた光が合わさったところからドゥルガーが誕生した。ドゥルガーが血なまぐさい狂暴な姿をとるときはカーリーと呼ばれる。

虹人はドゥルガーとは、武器を満載した円盤と考えている。

ドコの森■竜上83・96■

大湯ストーンサークルの周辺にある標高803.7mの、見事な三角錐の弧峰。山頂と近くの露岩に古代文字のような奇妙な刻み目が見られる。この文字様の刻み目に付いて山根キクは「もじとは思ほしものの形には色々あったが、主として木の枝の形をしたものやら、ヘブライ文字に似たもの、アヒル文字らしいもの」と報告している。

虹人は、ドコの森には、神代文字らしいものが刻まれた石が多数発見されており、古代のピラミッドと想像されていると言う。

常世国■竜上125■

海のかなたにあるとされた異郷で、永遠不変の国の意。『古事記』では、御毛沼命は波の穂を跳んで常世の国に渡ったという。また、常世国からやってきた少彦名(すくなびこな)命が、大国主命の国作りに協力した後で常世国に戻ったと書かれてある。さらに、垂仁天皇は田道間守(たじまもり)を常世国につかわして非時(ときじく)の香(かく)の木の実(橘)を求めさせたなどとある。

山田久延彦によれば、常世国とは天つ神の根拠地である地球以外の小惑星だという。

十三湊(とさみなと)■竜上20■

津軽岩木川河口の十三潟(じゅうさんがた)(十三湖)に開かれた中世の港湾。平安末期から港湾として整備され、鎌倉期に蝦夷管轄基地として脚光を浴びた。蝦夷沙汰を担当する北条氏が地頭も兼ね、代官に安東氏を置いて管轄。北条氏滅亡後は、「十三湊日之本(ひのもと)将軍」を称する安東氏の本拠地となり発展した。1340年(興国1)大津波で壊滅的被害をこうむったが再度復興されたという。「夷船京船群集し湊は市を成す」とその繁栄を記した『十三往来』はこのころの作成とみられる。

十拳剣(とつかのつるぎ)■竜上218■

長い剣の意。『古事記』で、須佐之男命がヤマタノオロチを切ったときに使用した剣。『日本書紀』本文では十握剣(とつかのつるぎ)。『日本書紀』の一書(第二)では、大蛇を切った剣を名付けて蛇(おろち)の麁正(あらまさ)というとあり、この剣は石上(石上神宮)にあるとされる。また一書(第三)では、韓鋤(からさび)の剣をもってヤマタノオロチを切ったとあり、この剣は、吉備の神部(神主)のところにあるとされる。また一書(第四)には天蠅斫剣(あまのははきりのつるぎ)をもって大蛇を切ったとされる。一方『古事記』では、須佐之男命がヤマタノオロチの尾を切ったときにこの十拳剣の刃が欠けたので、怪しいと思い剣の先で割いて見てみると都牟刈(つむがり)の大刀があったとされる。これを須佐之男命は天照大神に献上し、これが後に草薙の剣と呼ばれ三種の神器の一つとなる。

トニオ■竜下288■

虹人たちと一緒にアララト山に登った登山隊の隊長。マローン財団の輸出担当の責任者。事故に遭ったマローン財団の調査隊の一員に、トニオの兄がいた。

十来(とらい)塚■竜上85■

竹内巨麿は、戸来村の十来塚を『竹内文書』に記されているキリストの墓だと断言し、十来も渡来の当て字であると説明した。

ドラヴィダ人■竜下40■

おもに南インドで話される諸言語を総括する語族。今日の南インドには、形質人類学上、地中海型の特質をもつものが多いことなどから、地中海地方に人種的な淵源を求める説がある。また、巨石文化が北インドにはほとんど存在せず、主に南インドに残されていることから、地中海地方から直接南インドへ、海路によって渡来したのではないかとする説もある。インダス文字がドラヴィダ系言語であることはほぼ確定し、またインダス文明の担い手もドラヴィダ民族ではないかと推論されている。ドタヴィダ語の母音はアイウエオの長短母音があり、類型的に膠着語に分類される。(シュメール語参照)

鳥居■竜上261・新下58■

神社で、神域・境内などの神聖な区域を示す構造物。起源や語源については定説はない。日本固有説、中国・朝鮮・インド起源説など諸説ある。二本の柱の上にしめ縄を渡した「しめ柱」こそ祖型だとする説もある。語源については、「通り入る」、「鳥の居る所」、「門居(かどすえ)」などの転化と、様々である。

出雲で渡辺は「鳥居の鳥もUFOに関係があるんですかね」と言い、虹人は絶句した。神社が神の住まいであるなら、鳥居もそれに近い意味を持っているのだろう。神イコール鳥、すなわち神イコールUFOという図式だってありそうだと考えた。

縄文時代、ミトジの村の中心に十本近くの巨大な柱を組み合わせた円筒形の塔が建てられていた。それを見て、虹人たちはロケットを象った龍の柱だと考えた。出雲や東北に多い日吉神社の鳥居は、尖った屋根が被せられていて、遠目には尖塔に見えるという説明に皆が頷いた。

トリカドルカ■竜下49■

『インドラの歌』に出てくる。地名か?

鳥髪■竜上217■

『古事記』によると須佐之男命が、高天原を追放されて降り立ったところとされる。鳥取県仁多郡横田町鳥上と鳥取県日野郡との境にある船通山が鳥上山であるとされる。斐伊川の水源地。

タクシー運転手の渡部が、鳥上の「鳥」はUFO、「上」は神様とも解釈できるので、鳥上山はUFOでやって来た神様の山だと言うと、虹人は案外その見方は正しいかもしれないと考えた。

船通山のふもとには、今も鳥上という地名があり、そこに荒神、つまり須佐之男命を祀る鬼神神社があった。(船通山参照)

トリックスター■竜下38■

神話や民話にヒーローとして登場する、策略や詐術を駆使して活躍するいたずら者。「善なる文化英雄」と「悪しき破壊者」という矛盾する役割が、一主人公の属性として語られる。

トリムルティ■竜下91■

=三神一体。ヒンドゥー教の教理のひとつで、ブラフマー神とヴィシュヌ神とシヴァ神は、実は同一神、ないし宇宙の最高原理の別名にほかならないということを意味する。

トロイ■竜上46■

小アジアの北西端、ダーダネルス海峡に近いヒッサルリクの丘の遺跡。トロイア、トロヤともいう。この小丘は前3000年ころからローマ時代にいたる住居層が重なって、東西約百m、南北約115m、高さ36mほどの遺跡の丘となっていた。伝説上のトロイアの都が実在すると信じたシュリーマンが、1871年に初めて手をつけ、以来四回の発掘によって、宮殿、城壁、財宝を発見し、多くの著書によってその信念を実証した。

福島城址を訪れ、現実に何もない風景を前に失望する蓉に、シュリーマンがトロイを発掘した時だってその上には何もなかったと虹人は言った。(シュリーマン参照)

十和田湖■竜上38■

青森・秋田県境にある二重式カルデラ湖。

十和田様■竜上48■

十和田湖の主だった龍のこと。南祖坊という僧侶が十和田湖にいた別の龍を追い払って自ら主となった。

十和田文化圏■竜上83・新下28■

五万年前から栄えた、十和田湖と迷ケ平を中心とする文明。大湯ストーンサークル、ドコの森、大石神巨石群、キリストの墓、十和利山などが十和田湖を中心にして百キロ程度の円内に入る。

十和利山■竜上86・93・新下40■

青森県と秋田県にまたがる、十和田湖周辺の山。標高990m。

竹内巨麿は、十和利山は五万年前に作られた日本最古のピラミッドだとし、後に酒井勝軍が正式に十和利山を葦嶽山に次いで第二のピラミッドだと認定した。『竹内文書』によれば、十和利山の麓にかつて華麗な都が栄えており、アメノニニギノミコトが遷都したという。

迷ヶ平から眺めると、十和利山と戸来岳が一直線上に並んで見える。神社で例えるなら、戸来岳が主殿で十和利山が拝殿という関係だと、虹人は言った。

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