さ し す せ そ
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塞坐黄泉戸大神(さやりますよもつとのおおかみ)のこと。日本神話の神。『古事記』では、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(ふさ)いだ千引石のことをいい、道反大神(ちかえしのおおかみ)ともいう。村境や辻を守る境の神として、道祖神と同一視される。
虹人は、縄文時代の日本で富士の地下王宮を捜していた時に、ストーンサークルを道祖神と考える根拠を説明した。(道祖神参照)
中国、明代の白話長編小説で四大奇書の一つ。
南波が虹人に「お供します」と言ったのに対して、虹人が「それじゃ『西遊記』だ」と応えた。
1874-1940 山形県上山出身。生家は山下家。酒井家の名跡を継ぐ。幼名は勇吉。キリスト教受洗後、仙台神学校(現・東北学院大学)に入学。その後アメリカのムーディ聖書学院に留学する。帰国後日露戦争・シベリア出兵に従軍し、パレスチナを視察する。昭和四年、ユダヤの神宝が日本に隠されているとの信念を抱き竹内巨麿を訪問し、『モーゼの裏十誡』を著す。昭和五年『竹内文書』の解説書を著述し、昭和九年『太古日本のピラミッド』において、葦嶽山こそ世界最古のピラミッドであると発表するなど『竹内文書』関連書が多数ある。
平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。「赤面黄鬚、勇力人に過ぐ、将帥の量あり」といわれた。797年征夷大将軍に任じられ、阿弖流為と戦い、胆沢を平定した。翌年胆沢城を築城して鎮守府を多賀城から移し、また、志波城を築城するなど古代蝦夷経営の成果をあげ、804年再度征夷大将軍に任じられた。
田村麻呂は死後、勅命によって立ちながら甲冑兵仗を帯して葬られたと伝えられ(『日本後紀』など)、早くから国家に非常のあるときには鳴動すると考えられていた(『田邑麻呂伝記』など)。この伝承は賽の神的な色彩を有している。
東北地方には田村麻呂が創建したと伝える寺社がきわめて多い。観音堂が多く、神社・毘沙門堂がこれに次いでいる。
田村麻呂は、蝦夷を討つために、北方鎮護の毘沙門天を信仰していた。しかし、本来毘沙門は蝦夷、つまり原出雲族の指導者であった。牡牛の一族によって、毘沙門の性格が歪められたことから、このような皮肉が生まれると、虹人は説明した。
幸魂とは運によって幸いをもたらす恵みの魂で、奇魂とは神の奇跡を直接及ぼす魂のこと。『日本書紀』によれば、大国主命が国造りを終えて「この国を治めるものはただ私一人である。私と共に、天下を治めることができる者が他にあるだろうか」といったときに、不思議な光が海を照らして、忽然と浮かんでくるものがあった。「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を平らげることができるだろうか」というので大国主命が名を質すと「私は、お前に幸いをもたらす不思議な魂――幸魂・奇魂だ」といった。
出雲大社の境内を抜け出てすぐの参道の左側に、幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)の銅像があった。それは、跪いた大国主命が海に向かって両手を広げ、その先に巨大な波頭に乗った金色の玉があるものだった。東は、それを見て「まさしく典型的なUFOですよ」という。虹人は、抽象的な魂の存在を想像するよりも、UFOだと見るほうがずっと現実味もあると感じる。
アクトナインのカメラマン助手。二七才。童顔。小柄でひよわな体で、とうてい空手四段とは思えない。東が喧嘩早いのでいつも後始末に苦労している。歌舞伎町でアッと言う間に三人のチンピラをやったことがある。逃げ足も相当なもの。東の鼾のために睡眠不足が重なって、ロケハンのたびに三キロは痩せるという。
虹人の主食(笑)
224-651 アルサケス朝のあとを受けて西アジアの大半を支配し、イスラムの出現によって滅ぼされた。
東が縄文時代の服や刀を見て、古墳時代ではないかと疑問を持った。虹人は、日本が古墳時代なら中近東はササン朝ペルシャだと、東の考えを退けた。
岩手県を中心とする東北地方北部で信じられている神霊、妖怪の一種。特徴として、旧家の主として奥座敷に住み、部屋に泊まった者に枕返しなどのいたずらをする等々があるが、最も本質的な特徴は、この神霊が家の盛衰を支配するということにある。
斜陽館の広い部屋に案内された緒方が座敷ワラシでも出てきそうな雰囲気だと笑った。
島根県八束郡鹿島町佐陀に鎮座。祭神は佐太大神。佐太大神とは『出雲国風土記』によれば神魂命(かむむすびのみこと)の子である支佐加比売命(きさかひめのみこと)の子され、佐太神社の伝承によれば、サルタ彦のことであるされる。佐太神社は『出雲国風土記』に、「佐太大神の生まれしところなり」とある由緒ある古社である。本殿は三殿並立の大社造りで、国の重要文化財。佐太神社は旧暦十月の神在月(かんありづき)に全国から出雲に集まる神々の宿泊地と伝えられ、またこの月に行なわれる神在祭(かみありまつり)では、島根半島の浦にあがる海蛇を龍神の使いであるとして迎え、龍蛇様と呼んで祀っている。
出雲の竹野屋に宿泊した虹人は、明日の出雲巡りの最後に、龍蛇信仰がはっきり残されている佐太神社に行こうと思った。
ユダヤ教・キリスト教で、人間を神の道からそらせようとする力が擬人化されたもの。「敵対するもの」という意味のヘブライ語に由来する。サタンは、エデンでイブを誘惑したヘビや、ミカエルによって天上を追われた龍とも同一視される。
黒海に面する港。
虹人はサムスンで南波たちと別れ、信子と優紀を連れてローマに向かった。
ゾロアスターのこと。ゾロアスターの聖典の言語であるアベスター語では、ゾロアスターは「ザラトゥシュトラ」に近い音であったと推定される。
シャルケヌが名乗ると、純が「猿蟹と聞こえた」と言って皆を笑わせた。
古代メソポタミア最初のセム系アッカド人の統一王朝の創始者。在位前2350年頃〜2295年頃。「アッカドのサルゴン」と通称される。アッカド語ではシャッル・キンとされ、このアッカド語の王名は「王は真正なり」、「王は正統なり」を意味するが、父は不明である。伝承によると、生まれはユーフラテス川の畔のアズビラヌ。母はエントゥと呼ばれる女神官であった。その母は、サルゴンを秘密裏に生んだ後、これをアスファルトで防水した葦の籠に入れユーフラテス川に流した。アッキという灌漑工事人に拾われて庭師になり、イシュタルの恩顧を受けたという。『シュメール王名表』の記載によれば、その公的経歴はキシュ王ウルザババの酒盃官に始まる。サルゴンはキシュの北方に、直属のアッカド人を率いて新都市アガデ(その遺跡は未確定)を造営してその王となり、やがてウルク、ウル、ラガシュ、ウンマなどのシュメール諸都市軍を34度にわたって討ち、その盟主ウルクのルガル・ザグギシを捕らえた。そしてルガル・ザグギシに枷(かせ)をはめてニップールのエンリル神殿の門に伴い、シュメール・アッカドの地に統一王国を建設した。王は食事を共にする5600人の軽装で機動的な常備軍を首都アッカドに有し、外征によって「上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)に至るまで」の領域を支配下におさめた。
戸来村の、キリストの墓がある沢口家の家紋は、ユダヤの象徴である六芒星、いわゆるダビデの星に酷似している。また、まわりから「ミコのアト」と呼ばれており、御子の末裔とも解釈できる。
津軽にある靄山の近くの山。綺麗なピラミッド形をし、昔から安東の財宝の隠し場所だとか、アラハバキの御神体山と呼ばれており、靄山がピラミッドだと言われる前は、三角山がそうだと言われていた。良質の砂利が出るということは、人工的に盛り土したとも考えられる。
津軽開発が買った山の近くで、虹人は古地図の「飛龍眠土」を三角山と考えた。
中国古代伝説上の八人の帝王の総称。三皇と五帝に分かれる。
三皇は、『春秋元命苞』では庖犠(ほうぎ、伏羲(ふくぎ))・ジョカ・神農とする。これらの三皇は半人半獣であり、医薬、漁労、調理などの創始者とされたりしているが、倫理的な徳という点では重視されない。
『史記』には黄帝・センギョク・テイコク・尭(ぎょう)・舜(しゅん)を五帝として、人間の歴史の冒頭に置く。この五帝は徳の有無によって位を譲られ、またその功績も政治的である。(庖犠、ジョカ、神農参照)
神話に煩雑に登場する神の武器。雷の象徴と言われる。ポセイドン、シヴァ、マルドゥク、クベーラが持つ。
冥途にあるという川。
虹人は出雲大社本殿の荒涼とした風景を見て、唐突に恐山の三途の川原と呼ばれている場所が脳裏に浮かんだ。
虹人はムー大陸に関して、環太平洋の文化の相似性について語った。アラスカインディアンの先祖である鋼鉄の頭は全世界を支配し、雷鳥に乗る神々にも信頼されていた。やがて大洪水が地球を覆うと、神は鋼鉄の男を案じ、鮭に変えて水の中でも暮らせるようにした。洪水の後、雷鳥に乗って神が下りて来て、彼に手助けして文明を与えたという。インディアンが信仰していた雷鳥すなわちサンダー・バードは、そのはばたきによって雷鳴や電光が生じると信じられている。また、サンダー・バードは巨大な乗り物で、それから数十人の兵士が降りたという伝説も残されているという。
十三湖の北にある山王坊には、日吉神社と、金剛界曼荼羅による十三宗寺が建立され、平泉以北では中世最大級の規模を持つ一大霊場であったことが、1982年の調査で分かっている。ここから発掘された青銅製金工飾金具や青磁、白磁は、安東氏が十三湊を拠点に中国やインドとも交易を行っていたことを裏付けている。
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ヴィシュヌやブラフマーと並ぶヒンドゥー教の主神。『リグ・ヴェーダ』のルドラと同一視される。ブラフマーが世界創造神、ヴィシュヌが世界を維持する神であるのに対し、シヴァは世界破壊神である。世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れるので、マハーカーラ(大黒)と呼ばれる。天上から降下したガンガー(ガンジス)川を頭頂で支え、その頭に新月を戴き、三叉の戟を手にし、牡牛を乗物とする。
虹人は、カルカッタの空港からホテルに向かうタクシーの中でインド神話について説明した。ヴィシュヌとブラフマー、そしてシヴァが、現在のヒンドゥー教で絶対神として尊敬されていることを話し、インド神話と出雲神話の構造が瓜二つであることを指摘した。インドで国譲りの役目を果たしたのがシヴァ神で、建御雷神とシヴァは雷電を武器に用いており、まったく同一の性格を与えられているという。
シヴァの武器。アスラと戦うドゥルガーに、シヴァは三叉戟を与えた。
津軽半島北西部にある村。西は日本海に臨み、南部は十三湖が占め、北部は津軽山地北部にあたる。十三湖の湖口の十三は、中世には十三湊と呼ばれ安東氏の拠点として栄えたが、1340年(興国一)大津波をうけ一時衰退する。
市浦村の周辺の二束三文の山を、莫大な金額で買った妙な連中がいると、宗像が虹人に話したことが、物語のきっかけとなる。
司馬遷(しばせん)が書いた中国最初の通史。
『史記』三皇本紀には、最初の皇帝である伏羲(庖犠)について、蛇身人面で、易を創始し、木に文字を刻む書契を作って結縄(けつじょう、縄を結んで文字として用いる)に替え、男女の結婚の制度を定め、漁猟などの文化を教えた。その治世に、黄河より図(魔方陣)を背負った龍馬が顕れる瑞祥があったために、官名にことごとく龍の字をつけ、軍隊を龍師と呼んだと記す。ジョカについては、蛇身人首で、伏羲にかわって王位にいたとする。
庖犠・ジョカが蛇の体をしていたと書くことについて虹人は、想像だとしたらもっと立派な形容をしてもよく、事実と考えない限りこんな描写はありえないと言う。
中国最初の皇帝。在位、前222―前210。山東半島を巡った折に斉人の方士徐福から海中にある三神山のことを聞き、徐福に仙人と不死の薬を求めさせた。
四天王の一つ。東方を司る。
モヘンジョ・ダロとは「死者の墓場」という意味である。モヘンジョ・ダロの小高い丘の上には西暦200年前後に建設された仏塔の廃墟がある。
塔とモヘンジョ・ダロとはまったく関連はないが、塔の建設前から「死者の墓場」と言われていたとしたら、その霊を鎮める目的で建設されたものかも知れないと虹人はいう。しかし、虹人は、仏塔が建てられたことが原因で死者の墓場と言われはじめた可能性を付け加えることも忘れなかった。
菩薩の一つ。地獄の救済を特色とする。民衆の素朴な冥界の恐怖を背景に、地獄の鬼から亡者を守る慈悲の面を代表するものとして信奉された。六道を巡って衆生を導くという信仰は、辻々の六地蔵を生み、あるいは地蔵が小僧の姿で現れるという日本古来の通念を基盤に、在来の道祖神などとも習合して「賽の河原」の信仰も発達した。「さい」は、さい塞の神(道祖神)からきた語とも考えられている。石が道祖神と関係があったからである。
江戸時代になり、塞の神の機能に意味がなくなると、男根は地蔵の形に変えられた。地蔵は背後から見ると男根の形をしている、と虹人は南波に言った。
頂部に神殿をもつ重層基壇の聖塔。シュメールで始まり、その後周辺地域に広がった。3〜7層をもつ。建物の芯となる部分を日乾煉瓦で築き、表面は瀝青を使って焼成煉瓦を積み上げ、彩釉煉瓦や石で整えたものが多い。階段が頂上に通じる。周壁をめぐらし、礼拝所や中庭をともなう。ジッグラトの機能については(1)シュメール人の元居住地にあった山の象徴説、(2)天体観測塔説、(3)ピラミッドの影響をうけた王墓説、(4)ボルシッパなどの塔が〈天と地をつなぐ〉意味の名称をもつことから、宇宙的・象徴的建造物とする説、(5)神の玉座説、(6)高所の神殿を支える巨大な台座で階段によって人間の位置まで降りることができたという説、(7)神を求めて昇ると同時に神が人間のところまで降りやすいように、地と天の往来を保証する巨大な踏台説などである。
虹人らが見たニプルのジッグラトは、各層の屋上部分には樹木が隙間無く植えられており、バビロンの空中庭園を思わせた。ジッグラトは底辺100m、最上階まで70m、四層構造になっていて、裏側には神殿があった。一層の天上までは中央のほかに脇より登る階段が二つ設けられていた。最上階に降臨した神は中央の階段を降りて神殿に入る。神官たちは脇の階段から登って神を出迎えると、虹人は説明した。最上階には神の寝台、つまりプールがある。現存するジッグラトは全て最上階が残されていない。それは、龍一族が戻れないように、牡牛の一族がプールを破壊したためと考えた。また、ジッグラトに万全の排水装置が施され、樹木が栽培されているのは、最上階にプールを作ったためだと話した。
須弥山(しゅみせん)の中腹にある四天王天の四方に住んで仏法を守護する四体の護法神。東方に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天(毘沙門)が位置する。
香川県大川郡志度町にある真言宗善通寺派の寺。玉取り伝説にまつわる創建伝承を持つ。(玉取り伝説参照)
モーゼはシナイ山で神と出会い、啓示を受けた。(モーゼ、ヤハウェ参照)
虹人たちを尾行していた南波の部下の車。
中国の歴史家。『史記』の著者。(史記参照)
カルボキシル基を一つもつ脂肪族カルボン酸の総称。一般式R―COOH(Rは炭化水素基)。天然の動植物油脂や蝋の中に結合した形で広く存在する。
ストーンサークルの地下から高等哺乳動物の脂肪酸が検出されたことが、ストーンサークルが縄文人の墓であるという説の根拠となっている。
東北地方の亀ヶ岡文化で見られる縄文時代晩期の代表的土偶。中空の大型品で頭部には王冠をつけたような装飾があり、眼はエスキモーの遮光器をかけたように表現されている。胴部には亀ヶ岡土器の各期の文様が施されている。
『東日流外三郡誌』によれば、アラハバキの御神体は遮光器土偶に酷似している。虹人らは、遮光器土偶の形を気密服(宇宙服や潜水服)であるとし、また、二つの目が繋がっていることは、目一つ鬼、つまり宇宙人のヘルメットのガラスだと考えた。
青森県金木町にある太宰治の生家は、斜陽館という旅館になっている。蓉がロマンティックな旅館をテレビで見て、学生の頃から憧れていたため、わざわざ回り道をして、アクトナインの宿泊場所にした。虹人と緒方が通された部屋はもとの応接室で、蓉が案内された蘭の間は子供の頃の太宰の部屋だった。
青森県西部、十三湖南岸にあたる村。義経の「所縁の松」がある。
アクトナインのメンバーは不審を抱かれないように、まず車力村を中心に取材して回った。
牡牛一族の第三軍を預けられていた若い指揮官。25、6歳。凛々しい顔立ち。吊り上った眉と高く通った鼻筋が気性の激しさを見る者に印象づけるが、深く澄んだ青い瞳には優しさと憂いの両方が感じられた。逞しい胸の筋肉が細面の端正な顔に似つかわしくない。人をひきつける力がある。=サルゴン。(サルゴン参照)
『リグ・ヴェーダ賛歌』「インドラの歌」に出てくる悪魔の名。
チベットの奥地に存在するといわれる仏教徒のユートピア。
シャンバラの地下王宮への入り口はヒマラヤ山脈中腹にあると虹人はいう。
青森県北西部、岩木川の河口にある潟湖。河川による堆積作用が盛んで最大深度は1.5mにすぎない。堆積作用や干拓により湖の面積は明治初年に比べ半減している。海水と淡水が会合し、シジミを特産する。太宰治は『津軽』の中で、「浅い真珠貝に水を盛ったような気品をもつがはかない感じの湖である」と述べている。湖口の十三(じゅうさん)は、かつて三津七湊の一つに数えられた十三湊(とさみなと)である。
虹人と緒方は、昨年亀ケ岡遺跡を目的に青森県に行き、その時に十三湖も見てきた。宗像は、十三湖から十キロも離れていない二束三文の山が八億で買われたことを虹人に話し、調査を依頼した。
西欧キリスト教徒の軍団が行った中近東各地への軍事遠征。
アンカラで、東がソフィの正体についての疑問を口にすると、虹人は、もともとキリスト教は戦う宗教で十字軍の伝統を引き継いでいる。暗殺者の育成もそれほど極端な話しじゃないと言った。
粘土板に刻まれたイシュタルの物語には、イシュタルは、頭にステップのための王冠『シュ・ガル・ラ』を被っているとある。
虹人は、「ステップのための王冠」を飛行に欠かせないヘルメットだと考えた。
古代バビロニア沖積平野の中・南部をさす地名。(北部はアッカド)
虹人は、龍の本拠地をシュメール文化の発展したメソポタミアではないかと睨んだ。龍が、シュメールを境にして西は悪魔、東は神聖な神と分かれるためである。
古代メソポタミア南部で使用されたシュメール人の言語。前3100年ころから前50年ころまでの文献が発見されている。ウル第三王朝まで現用語であり、それ以後は徐々に死語化するが、一種の文化語として古代オリエントで長く使用された。シュメール語は、構造的には典型的な膠着語に属し、周辺諸国語とは類縁関係を持たないため、シュメール人の起源については最終的な回答は得られていない。
母音の数が、日本語はアイウエオの5音だが、シュメールはアイウエの4音である。ちなみに英語は12、ドイツ語は15、フランス語は16、ベトナム語は9、朝鮮語は8、アラビア語は3と、世界各国語の母音の数はかなり差がある。
『古事記』がシュメール語で解読できると説く学者がいる。(グゥド、ドラヴィダ人、ナム・バ参照)
ドイツの考古学者。ミュケナイ文明とミノス文明の発見者。少年時代にホメロスの物語に魅了されてトロイアの都の実在を信じ、その発掘を決意する。
福島城址を訪れ、現実に何もない風景を前に失望する蓉に、シュリーマンがトロイを発掘した時だってその上には何もなかったと虹人は言った。
ウルやウルクに食糧を供給している、常駐する施設もない小さな町。
奈穂美の3年先輩。25歳。実は鹿角のスパイ。優紀の三歳下。上山田温泉のホテルのバーで知り合い、諏訪まで連れて行ってくれと東に頼んで同行した。順子と奈緒美は、上社の近くで虹人たちの車を降り、優紀に連絡を取った。虹人は敵を誘い出すために、下社から再び車に乗った二人に、わざと出雲に行くことを話し、宗像の電話番号を教えた。諏訪湖付近のホテルで二人が降りた後、車を探ると、予備タイヤの下に発信機が残されていた。
縄文時代の日本を訪れた虹人は、屋久杉の樹齢二千年の縄文杉を思い、人間など小さな存在にすぎないと感じた。
独学で楔形文字の解読を習得し、1872年に大英博物館に運びこまれたニネヴェ出土の粘土書板から、『ギルガメシュ叙事詩』の一部を発見した。ロンドンの「デイリー・テレグラフ」紙が『ギルガメシュ叙事詩』の残りの文書発見に対して巨額な賞金を提供することにすると、スミスは名乗り出て再び奇跡を引き起こし、無数の粘土板の中から目的のものを見いだした。
中国神話にみえる創生神。三皇の一人。蛇身人首で、神聖の徳があり、伏羲(ふくぎ、庖犠(ほうぎ))にかわって王位についた。伏羲・ジョカの両神は、下体が龍形で相交わる神像として描かれている。
歴史学者たちは、三皇をただの神話だ片付けているが、想像だとしたら、蛇の体などではなくもっと立派な形容をしてもいいと虹人は言う。事実と考えない限り、こんな描写はありえないと語る。
中国、秦代の方士。秦の始皇帝の命によって、東海中の三神山に仙人や不死の仙薬を求めて、童男女数千人を率いて入海した。海中で見つけた平原に止まり王となったという。徐福が来住したという伝説は、熊野、九州、日本海沿岸地域に分布する。また、徐福がすなわち神武天皇で、日本に入って国を立てたのだとする説などがある。
『宮下文書』によれば、徐福は富士の裾野に住み着いたとされ、華麗な都が富士吉田市一帯に栄えていたとあると、虹人は説明した。
婚姻に際して、花婿以外の者が花嫁と最初の性交をなす権利。初夜権を持つのは僧侶、王、地主が多く、酋長や呪医の例も少なくない。
ハラッパーは、暴君として名高いハラ・パーラ王の城の廃墟と思われていた。ハラ・パーラ王は住民に対し常に初夜権を要求していたと言われる。
京都市上京区に鎮座。崇徳天皇、淳仁天皇を祀る。孝明天皇が京都に崇徳天皇の神霊を迎えようとしてならず、明治天皇が明治元年現地に白峯宮を創建して祀った。さらに明治六年淡路島の淡路陵に葬られている淳仁天皇の神霊を迎え合祀した。1940年白峯神宮と改称。
虹人は、神の本来持っている意味がすり替えられた例として、崇徳院を祀る白峰神宮を挙げた。
中国最初の統一帝国。前221年に秦王政(始皇帝)が全国を統一する。
『宮下文書』によると、徐福は、秦の始皇帝の命を受けて日本に不老長寿の仙薬を求めてやってきて、富士山麓に住み着いたとされる。
政治家の出版祝賀会が行われたホテル。優紀が鹿角に津軽で宗像の手のものが山を調べていると報告した。
山田久延彦の著書。『古事記』とは、宇宙の発生から神武の日本統一まで、天つ神、つまり宇宙人が介在した歴史であるとする。人類そのものが宇宙人で、金星や小惑星にいた宇宙人が地球に彗星をぶつけて大陸を作り、環境を整えてから移住してきた。ところが、地球の大異変に遭遇して一部がふたたび宇宙に逃れ、安定したのを見届けて、また戻って来た。宇宙に脱出できずに取り残された人類の纏め役が、いわゆる国つ神で、舞い戻った人々が天つ神。その戦いの結果、天つ神が日本を統一する。思金の神がコンピューターで、UFOは天の羅摩船とする。
漢字の渡来および「かな」の成立に先だって、上古の日本にかつて行われたと称せられる文字。神代文字が存在したとする説は、おそくとも室町時代から神道家の間にひろまっており、江戸時代においては、平田篤胤をはじめ国学者のうちに、その存在を主張する者が少なくなかった。
神代文字の中にはシュメールの楔形文字が基本になっていると解釈されるものもある。文字が似通っているものなら、話す言葉も似ていて不思議はないと虹人は思った。しかし同時に虹人は、もっとも……神代文字が後世に拵えられた偽物でなければの話だ、とも思った。
神代文字が後世の偽作とされる最も大きな理由は、神代文字が四七音ないし五十音しか書き分けないことによる。いろは歌や五十音図だけでは示しきれないところの音が上代にはあり、これらを万葉仮名ではちゃんと書き分けてその区別を守っている以上、もし神代文字が真に「かな」以前のものであったとすれば、少なくとももっと多くの字体がなければならないのに、いわゆる「変体仮名」にあたるものさえないのである。
中国神話にみえる神。三皇(さんのう)の一人。炎帝(えんてい)と同一視され、炎帝神農(えんていしんのう)とも呼ばれる。ジョカについで興り、農耕や交易を教えた。神農は、人身にして牛首であったという。
虹人は、ジョカが蛇体であり、神農が人身牛首であったと言われていることから、中国もまた、牡牛の一族によって追い討ちをかけられた疑いがあると述べる。そして、龍一族の一部が日本に逃れ、原出雲族として君臨したという。さらに、津軽に龍信仰を持ち込んだと思われるツボケ族が、中国大陸から渡って来たのは、今から四、五千年前だと『東日流外三郡誌』に書かれており、ちょうど神農の時代に合致すると語る。
神武天皇が、日向の国を発して、各地を征服しながら大和に入ったこと。
神武東征に抵抗し、敗れて北に逃れた長髄彦を開祖とする安倍一族によって築かれた津軽王国の存在は、あくまでもロマンであって史実ではないと主張する学者が大半を占めている。
長髄彦が埋められたと言われる山の頂にある神社。昔は於瀬堂または安倍神社と呼ばれていたのが江戸時代に強制的に神明宮と改名させられた。大男の人骨が発掘され、長髄彦のものだと主張する人もいる。
神社の建物は新しく、虹人もさすがに失望した。石段の脇の木の枝に、藁で拵えた龍の親子が、刀のように掛けられていた。
4000年前に人類は核戦争を起こしていたことを、神話、伝説、遺跡から説いた本。人類は一度核戦争で滅亡のふちに立たされたが、地下核シェルターにもぐり、核戦争を生き残ったわずかな古代人はやがて地上へその姿を現し、未開人たちを教化、再度地上に文明をもたらした、と説く。
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パンツを大事にしていた純に、東は「小学生の時に使った遠足用の水筒だって保存しているんじゃねえのか」と言ってからかった。東は水筒にはロマンがあるという水筒マニア。死んだ父親に買ってもらった革のベルトの付いた水筒を今でも気にし、アルバイトで買ったアメリカ陸軍仕様の水筒を大事にしている。
1754-1829 江戸時代後半の傑出した旅行家で、紀行文を多数残した。生地は三河国渥美郡(現、豊橋市近辺)。その生涯の大半は、東北日本の旅に過ごし、見聞した記録は、『真澄遊覧記』などにまとめられている。記録は、ほとんど旅日記と地誌の体裁をとっている。寛政八年六月に十三湖を訪れ、安東氏に多大な関心を寄せた日記を書き、以降、弘前を本拠に享和元年の暮れまで暮らした。
『東日流外三郡誌』の別巻として編集された『太古代絵巻』と『安倍安東秋田氏遺跡八十八景図』の中に共同執筆者として菅江真澄の名が掲げられている。おそらく真澄の日記の空白期間を調べ、『東日流外三郡誌』に真実味と箔をつける意図で書き足されたものだろうという。しかし、真澄の日記は本物であるから、少なくとも寛政年間よりはるか以前から、十三湖周辺には安東一族の繁栄の伝承が広まっていたということになる。
(須我神社参照)
島根県大原郡大東町大字須賀に鎮座。出雲風土記に須我社と記載のある古社。『古事記』によれば、八岐大蛇を退治した須佐之男命は、宮を造るべきところを出雲の国に求めた。そして須賀の地に到って「我(あ)が御心清浄(すがすが)し」といい、ここに宮を造った。そのとき、雲が立ち上ったのをみて、『や雲立つ 出雲八重垣。 妻隠みに 八重垣作る。 その八重垣を。』と歌を詠んだとある。このため、須我神社は、日本初の宮、和歌発祥の地と言われる。須我神社の奥の宮である八雲山の登頂路には、夫婦岩という巨大な霊石がある。
龍が眠っているかもしれない船林神社を訪れた後に須我神社を訪ねても、虹人たちには特別な感慨はなかった。まるで、「プロ野球の消化試合と一緒ですよ」と東が耳打ちした。しかし、三人は不審をもたれないように、二十分ほどただの観光客に戻って、須我神社の境内を巡った。
足名椎(あしなづち)が須佐之男命(すさのおのみこと)に賜わった名前。須佐之男命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して須賀の地に宮を作った後、足名椎を呼んで、その宮の長となることを命じ、稲田宮主須賀八耳(いなだのみやぬしのやつみみ)の神という名をつけた。
虹人はヤマタノオロチ退治の伝説を、須佐之男命が龍信仰をもつ一族を滅ぼしたという意味に解釈する。須佐之男命が、龍一族を平定して宮を構えた時、アシナヅチを首長に据え、須賀八耳神と名付けたが、耳と言うのは聞き耳を立てるという意味にも解釈でき、平定した部族から反乱が起きないように、監視の役目をアシナヅチに負わせたと考えられると語る。
平安初期の学者。政治家。宇多天皇に重用され、醍醐天皇のときに右大臣になったが、左大臣藤原時平の讒言により大宰府権帥に左遷され、没す。死後、道真のたたりと称する異変が相次いで起こった。923年(延長一)罪を取り消され本官に復したが、930年清涼殿に落雷があり廷臣が死傷したため、衝撃をうけた天皇は同年譲位、数日後没した。道真は993年(正暦四)には正一位太政大臣を贈られた。雷神となって猛威をふるった荒ぶる神としての道真像は、やがて利生(りしょう)の神としての天神像へと変化する。道真は観音の化身と見られ、慈悲・正直の神と信じられ、さらに王城鎮護の神とされ、学問・詩文の神として仰がれた。
虹人は、神の本来持っている意味がすり替えられた例として、道真を祀る天満宮を挙げた。
紀・小彦名神。日本神話の神。『古事記』によれば、大国主神が出雲の御大之御前(みほのみさき)にいたとき、波の穂より、天之羅摩船(あめのかがみのふね)に乗り、蛾の皮を衣服として漂着した神があった。名を問えども答えず、まただれもその素姓を知らなかったが、ヒキガエルと久延毘古(くえびこ、山田の案山子(かかし))によって、神産巣日(かむむすひ)神の子であることが知れた。神産巣日神は、葦原色許男(あしはらしこを大国主命)と兄弟になってその国を作り固めよと命ずる。よって二神は協力し葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを行うが、のちに少名毘古那神は、常世(とこよ)の国へ渡っていったという。『日本書紀』にも、大己貴命(おおあなむちのみこと、大国主命)とともに天下を造ったとあり、その後出雲の熊野の岬にいって常世に去ったとある。少名毘古那神が大国主命と国造りをしたという伝承は、播磨、出雲の『風土記』にもある。また、『日本書紀』では、粟茎(あわがら)によじのぼりはじかれて常世郷(とこよのくに)へ赴いたともされ、さらに『伯耆(ほうき)国風土記』には「粟に載りて常世郷(とこよのくに)に弾かえ渡りましき」とあることから、粟をもたらす穀霊神的な要素がうかがえるといわれる。
虹人は、少名毘古那神とは天の羅摩(かがみ)船に乗って出雲に降り立った小人タイプのエイリアンであると考えている。また、蛭子つまり夷の次に生まれて海に捨てられた淡島の正体が少名毘古那神であることから、夷と少名毘古那神は兄弟であると推測する。
さらに、道祖神から発展した金精様の神社が淡島明神であり、淡島明神の祭神が少名毘古那神であることから、虹人は、道祖神が少彦名であるという。また、龍の一族は、塞の神である石棒をアラハバキと言い習わしたが、その実体は少名毘古那神であったと語る。龍の一族にとっては、少名毘古那神は文字通り外敵から身を守ってくれる塞の神であったのだろうと言う。
『古事記』では、少彦名神は蛾の羽で編んだ衣服を身に纏っていたとされ、『日本書紀』ではミソサザイの羽を衣にしたと記されている。虹人は、シュメールの女神イシュタルが、空を飛ぶ時に薔薇色の服を来たと粘土板に刻まれていることを挙げ、薔薇色の服という言葉が艶のある服を表現したと考えれば輝きで三者は共通するという。
イラン南西部の古代都市遺跡。先史時代からメソポタミアとイラン高原をつなぐ交通の要所として重要な役割を果たしてきた。アケメネス朝ペルシアのダレイオス一世がここに首都を建設した。
スサノオとは、ブトーが支配下に治めたスーサの町に由来する名前で、スーサの王、すなわちスサノオだと虹人は語る。
島根県簸川郡佐田町に鎮座。『出雲国風土記』に記載されている古社。須佐之男命、櫛名田比売、足名椎、手名椎を祀る。『出雲国風土記』には、須佐能袁命(すさのをのみこと)が、「この国は小さい国だが国としてはいいところだ。だから私の名前を木や石につけるべきではない」といって、自分の御霊をここに鎮めておいた。だから、須佐というとある。
空港から大社町に向かうタクシーの中で、スサノオ伝説を追いかけてきたという虹人に、運転手が佐田の須佐神社にも行くのかと尋ねた。
日本神話の神。『日本書紀』では素戔嗚尊(すさのおのみこと)と記す。速(はや)素戔嗚尊、建速(たけはや)須佐之男命とも呼ばれる。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。高天原(たかまがはら)では悪、罪、穢(けがれ)の化身としてあらわれ、地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)では開祖の神として語られ、日本神話のなかでもっとも問題性に富む神格といえる。
須佐之男命について『古事記』は次のように記す。伊邪那岐命が、黄泉国(よみのくに)の穢を禊(みそぎ)で清めた際、左の眼から天照大神、右の眼から月読命(つくよみのみこと)、そして鼻から須佐之男命が生じた。伊邪那岐命は天照大神には高天原、月読命には夜の世界、須佐之男命には、海原とそれぞれ分治させるが、須佐之男命は激しく号泣するばかりで、そのため青山は枯山となり、海、河はことごとく干上がってしまう。伊邪那岐命がその理由を問うと、彼は「母の国にゆきたくて泣くのだ」と答えたため、伊邪那岐命は大いに怒り、「それならこの国に住んではならない」と須佐之男命を追放した。黄泉の国に行く前、彼は天照のもとへ赴くが、天照に国を奪おうとしていると誤解されたため、須佐之男命は邪心のないこと誓約(うけい)によって証明する。しかし、須佐之男命は誓約に勝ったおごりから、数々の暴挙に及んだため、天照は天(あま)の岩屋戸(いわやと)にこもり、世界は暗闇にとざされ混沌、騒然たる状況に陥る。諸神の協力により天照は岩屋戸を出て秩序が回復されるが、須佐之男命には改めて多くの賠償が課されたうえ「神やらい」に処される。追放された須佐之男命が天降ったのは出雲国、肥河(ひのかわ)の上流で、そこで彼は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、大蛇の尾の中から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、後の草薙剣)を得て天照に献上する。そして、櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚して、出雲の須賀(すが)に宮を造る。
この須佐之男命の神話に続いて登場するのが、須佐之男命の五世の孫に系譜づけられている大己貴神(おおあなむちのかみ、大国主神)である。須佐之男命は、難を逃れるため根の国に赴いた大己貴神にさまざまな試練を課す。大己貴神が試練を克服したとき、須佐之男命はその娘・須勢理毘売(すせりびめ)命と大国主(おおくにぬし)の名を大己貴神に与える。以後須佐之男命は記紀神話の世界から姿を消している。
『日本書紀』の一書には、須佐之男命が「神やらい」に処されたとき、「その子五十猛神(いそたけるのかみ)をひきいて、新羅の国に降りられて、曽尸茂梨(そしもり)のところにおいでになった」と記されている。古代朝鮮語でソシモリとは牛頭という意味であるので、高天原から追放された須佐之男命が朝鮮の牛頭という土地に住んだという記載であるとされる。これは、素戔鳴尊が牛頭天王になったという縁起ともいわれる。また、京都の八坂神社の社伝には「斉明天王二年(六五六)新羅の牛頭山から素戔鳴尊の神霊を迎えて祀った」とある。
虹人は、八坂神社の祭神である牛頭天王が須佐之男命であることから、須佐之男命を牡牛の神と考える。そして、八岐大蛇退治伝説とは、須佐之男命が率いる牡牛一族が、シュメールから逃亡してきた龍一族を一時的に平定したという意味に解釈し、製鉄技術をもっている龍一族から草薙剣を手に入れたと考える。
4000年前のシュメールで、南波に捕えられた船に乗っていた牡牛の神の名はブトーであった。虹人は、蘇民将来伝説のなかで須佐之男命自身がブトーと名乗ったことから、この牡牛の神を須佐之男命であると言う。須佐之男命は、未来を賭けた虹人との戦いの末、和解の進言をすることを約束する。
アラジャホユックの王族の墓から出土した、青銅製の太陽の円板および牡牛と牡鹿の像は、神々のシンボルとして、竿先に固定された一種の「スタンダード」と考えられている。
王墓とヒッタイトは時代に隔たりがあるが、スタンダードだけは時代を超えて存在する。虹人は、核戦争で生き延びた人々がヒッタイトの保護を受けて製鉄技術を伝えたと考えた。
釈迦の遺骨を納めた聖建造物。塔。中国や日本ではそとば卒塔婆。
縄文時代の日本を訪れた虹人たちは、ミトジの村の中心に、十本近くの巨大な柱を組み合わせた円筒状の塔が建てられているのを見た。それは紛れもなくロケットを象った龍の柱であり、鹿角はモスクの尖塔という比喩を使った。虹人はストゥーパであり、諏訪の御柱の原型でもあると言い、日吉神社の鳥居との関連を述べた。
1119-64 第七五代に数えられる天皇。在位1123―41年。鳥羽天皇第一皇子。実は鳥羽の祖父白河院が璋子に生ませた子といわれる。諱は顕仁。1123年(保安四)白河の意向で鳥羽の譲りをうけて即位したが、白河が没し鳥羽院政の時代に入ると両者の対立が生じた。41年(永治一)異母弟(美福門院得子所生)の近衛天皇に譲位させられ、さらに近衛の死後も後白河天皇が擁立され、自らの皇子への皇位継承の望みが絶たれる。鳥羽院が没すると左大臣頼長と結び、挙兵する(保元の乱)が敗れ、崇徳上皇は讃岐に配流された。配所で怨みを抱いて没したため、怨霊として恐れられた。陵は白峯陵。
虹人は神の本来持っていた意味がすり替えられる例として崇徳院を挙げた。(白峰神宮参照)
巨石記念物の一種。環状列石と訳される。柱状の自然石を立て並べて環形としたもの。日本では、縄文中期〜後期のものが、北海道、東北地方などに存在する。祭祀遺跡とする説と墓地とする説がある。(脂肪酸参照)
虹人は、ストーンサークルを縄文人が拵えた道祖神であるという。ストーンサークルの立石は、最初に石棒の形をした少彦名神=道祖神の象徴が拵えられて、次にそれと相対する女隠の形をした岩が導かれたと虹人は考える。立石を取り囲むサークルは、外敵の侵入を監視する目玉を意味しており、縄文人たちにとって、エイリアンの乗って来たロケットと彼らの大きな目玉こそが神の象徴だったという。そして、その二つが合体したものがストーンサークルであると語る。また虹人は、ストーンサークルを道祖神であると仮定すると、あらゆる謎の解答が出ると次のように言う。ストーンサークルは、一基だけという例はなく、必ず一対か二対、もしくはそれ以上の偶数になっている。墓だとしたら奇数の遺跡が発見されてもいいはずであり、対になっているのはストーンサークルが道祖神であるからである。次にストーンサークルがつねに村落から隔絶された辺鄙な場所に造られる謎も解けると言う。結界とは、村外れに位置するものであるからだ。村から隔たっていて監視の目の届かない場所こそ重要で、現在発見されているストーンサークルのすべてはそういう場所にある。また、なぜ遺跡破壊が見られないかについても明白で、ストーンサークルは神であり、墓は壊せても神を冒?することはできないからであると語る。すべてに破壊が見られないということは、神の居場所だったという結論になると言う。
イギリス、イングランド南部、ソールズベリー平野にあるヨーロッパ随一の巨石記念物。新石器時代後期から青銅器時代にかけて(前2500〜前2000ごろ)造営された。北東の開口部の外には高さ5mの自然石(ヒール・ストーン)が立てられているが、この方向が夏至の日の出の方向に一致することが指摘され、最近では巨石や土坑などの配置や高さなどから、さまざまの天文観測の可能性を推測し、それを中心とした祭祀執行の場とする説もある。
考古学者たちは、宇宙人遺跡だと聞けば、宇宙人が造ったものだと皆が主張していると思い込んでいて、ストーンヘンジもイースター島のモアイも当時の技術で作れるからと言って宇宙人を否定する。なぜ拵えなければいけなかったかという疑問に考古学者たちは答えていないと、虹人は批判した。
松本清張の傑作と評価の高い推理小説。舞台となった亀嵩は、関東以南で唯一東北弁が認められる所。
出雲の人々が津軽に逃れたという虹人の仮設に立てば、亀嵩こそ東北弁の故郷であり、それがスサノオ伝説のメッカである横田町の側にあるのは偶然ではないと虹人は思った。(亀嵩参照)
「すまる」ともいう。西洋名のプレヤデス星団のこと。二十八宿では昴宿(ぼうしゅく)にあたる。すばるの語意は「統(す)べる星」の意味で、六星が糸で統べたように集まったものとするのが定説となっている。
ブアビの父王は虹人に、スバルは神の生まれた神聖な星だと言った。
人間の頭とライオンの胴体をもった怪獣で、エジプト、ギリシア、メソポタミアに見られる。ヒッタイトの半浮彫の彫刻として、アラジャホユックのスフィンクス門が有名である。
虹人が訪れたアラジャホユックの遺跡自体は平凡で、門を飾るスフィンクスを除けば見るべきものが少ないが、虹人にとっては大事な遺跡だった。
インド神話の太陽神。『リグ・ヴェーダ』に登場する。
長野県に鎮座する古社。上社(かみしゃ)、下社(しもしゃ)に分かれ、建御名方(たけみなかた)神とその妃である八坂刀売神をまつる。他地方にみられぬ古来の特殊神事が多く、その中の最大のものは、寅・申の年に行われる式年造営御柱大祭(おんばしら、御柱祭)といわれるそれである。(御柱、建御名方神参照)
=建御名方(たけみなかた)神。龍の子太郎の母親の龍は諏訪大明神であり、龍に変身した甲賀三郎も諏訪大明神の化身だった。(甲賀三郎、建御名方神参照)
せ |
古代ギリシア人の最高神。カドモスの姉妹であるフェニキア王女エウロペのもとに通う時に、牡牛に姿を変えた。
虹人はポセイドンが牡牛と同一視されるのは、兄であるゼウスが牡牛に姿を変えることと関係があると言う。
1961年、グアルティエロ・ヤコペッティ製作のイタリア映画。
虹人は、複葉飛行機の模型を神として祀っているニューギニアの部族を『世界残酷物語』で見た記憶があった。古代にロケットに乗ったエイリアンが日本に来たとすれば、おそらく同じように神と畏怖したはずだと、諏訪大社の御柱を眺めながら虹人は東に話した。
諸説ある。普通は、エジプトのピラミッド、バビロンの塔、バビロンの空中庭園、オリンピア大神殿のゼウス神像、ハリカルナッソスのマウソレイオン、エフェソスのアルテミシオン、ロードス島の太陽神の青銅巨像を言うが、これらのうち若干は、アレクサンドリアのファロス燈台、エピダウロスのアスクレピオス像などと入れ替えられることがある。
男根の形に削った石。
富士山麓のストーンサークルの立石は、リンガを象ったもので、リンガ・ヨニがストーンサークルの原型だという虹人の仮説が実証された。(道祖神参照)
東のアパート。壁のモルタルが今にも剥がれそうな建物。最寄の駅は、歩いて15分の京王線笹塚。
1056年(天喜四)から62年(康平五)まで陸奥守兼鎮守府将軍源頼義と陸奥国の安倍氏の一族との間で戦われた戦乱。
宗像は、常に侵略されてきた東北の歴史を語り、問題なのは「役」という用例で、これはもともと外敵との戦に使う言葉だと指摘する。
浅間山の山神を「浅間大神」といい、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)と同一視された。また神仏習合の過程で、浅間大菩薩とも称された。
『富士の人穴』という草紙に書かれている新田四郎の伝説では、彼は浅間大菩薩を案内役にして富士の地下に広がる地獄を見てまわった。『富士の人穴』にも甲賀三郎伝説にも、地底世界が描かれ、浅間の神が関係している。そして、徐福の記した地下王宮の所在地は、富士吉田市にある浅間神社の真下で、『宮下文書』を守り伝えたのも浅間神社の神官たちであると、虹人は富士の地下王宮の可能性を説いた。
富士宮市上条にある遺跡で、八基のストーンサークルが確認されている。
鳥取県仁多郡横田町鳥上と、鳥取県日野郡との境にある山。標高1142m。ヤマタノオロチ伝説の「肥の川」であるとされる斐伊川は、この船通山付近に源を発す。
『古事記』に、高天原を追放された須佐之男命が降り立った所として記される鳥髪(とりがみ)が、この船通山であるとされる。
蓉が、山の奥に船なんて不自然だというと、東はUFOだったらおかしくないという。麓から船通山の全容を見上げると、頂上には平らかな台地が広がり、樹木がほとんどない。虹人は自分がUFOの搭乗員だとしても船通山を着陸場所に選ぶのは確かに思えた。また、船通山の麓には玉子神社、龍駒の地名、鬼神神社、登り口付近には手名椎、足名椎神社があり、船通山に須佐之男命がUFOで降りたったのは確実に思える。さらに船通山は今でも極端にさびしい一体で、虹人は、須佐之男命の飛来事実でない限り、伝説が生まれる場所とは思えなかった。
さらに虹人は、敵に罠を仕掛ける場所として船通山が最適であると考え、接触してきた蔭山優紀を逆に利用して、鹿角たちを船通山に誘い出した。
親鸞が『歎異抄』のなかで展開した悪人正機(あくにんしょうき)説。悪人も救われるのだから、善人が救われるのはあたりまえ、との一般通念に対し、善人でさえ救われるのだから、悪人が救われないはずはない、との論を展開した。
虹人は、悪霊と共存するばかりか、善神にすり替えてしまう日本人の性質を語る。外国には善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をやなどという考えはないという。
古墳時代を代表する墳墓形式。円丘の一側に長方形台状の施設を付加した特殊な形態。江戸中期の国学者、蒲生君平が『山陵志』の中で「前方後円」と形容したのが起源である。
出雲の船林神社を見た虹人は、妙な形をしていると感じた。元は前方後円墳だったのかもしれないが、後円部分が削られたのか、ほとんどコッペパンの形をしている。
そ |
四天王の一つ。南方を司る。
死海南部のヨルダンの低地にあった古代の町。住民の退廃のために天から降る硫黄と火とで焼き滅ぼされたというソドムは、地震のために死海南部の水中に没したのではないかと言われている。
蘇民将来伝説が、聖書に出てくるソドムとゴモラの話や、ノアの方舟に共通するという虹人に指摘に、東はあんぐりと口を開いた。
アララト山で事故に遭った調査員の唯一の生存者。隆一の恋人だった。実は、ヴァチカンの龍の専門家チームのリーダーで、仲間から銀の眼と呼ばれている。
「酒の神」と「神の飲む酒」の両方の意味を持つ。もともとは植物を絞った液で、酒ではないという見方もある。興奮作用か幻覚作用を持つ飲料だというが特定されていない。
蘇民将来。『備後国風土記』逸文の蘇民将来伝説に出てくる貧しい兄。
ソミンもコタンもメソポタミアにあった都市の名前だという。
護符の一種。晴明判(魔よけの星象)や「蘇民将来子孫」などの文字を記した六角柱または八角柱の短い棒、もしくは紙や板の札に「蘇民将来子孫之門」や「蘇民将来子孫繁昌也」と書いて、家の戸口に貼って魔よけとしたり畑に立てて虫よけとすることもある。
『備後国風土記』逸文には、旅に出た武塔神(須佐之男)が宿を請うたところ、富裕な弟の巨旦(こたん)将来はことわったが、貧しい兄の蘇民将来は宿にとめ歓待したため、茅(ち)の輪の護符を腰につけるように教えられ疾病を免れたと語られている。
ソミンもコタンもメソポタミアにあった都市の名前で、スーサもバビロニアに栄えた都市である。スーサの王がスサノオであり、蘇民将来伝説はバビロニアの話が日本に移ったものだと虹人は言う。
虹人らと初めて会った時、イシュタルは重力を制御する小さい円盤に乗って宙に浮いていた。小型の円盤を、東は「空飛ぶ座布団」と形容した。
?-前928 イスラエル・ユダ複合王国二代目の王。在位、前967年ころ〜前928年ころ。ダビデの子。活発な商業活動によって巨富を集めたことから、「ソロモンの栄華」の伝説が生じた。
龍の扉が開くまで、虹人は虚無感に支配されていた。ソロモン王の宝窟を捜し求める冒険者たちと一緒で、過程こそが重要だったのである。
ネブカドネザル一世に始まる第二次バビロニア帝国には、ヤハウェが関係していた痕跡はない。それよりもダビデの子ソロモンが受け継いだイスラエル帝国の力を大きくするほうに精力を注いでいたんだろうと虹人は考えた。
収益と費用がちょうど等しくなる企業の業務活動の水準。すなわち、実際の業務活動がこの点に対応する水準に達しなければ企業は損失をこうむり、この水準を越えれば利益を得る。
オープンしたてのラーメン屋で、サービスの茹で玉子を東は四個、純は六個食べた。東は五個が損益分岐点だから、それを超えて食べれば店に迷惑がかかると、純に言った。