か    き    く    け    こ 
 あ行    か行    さ行    た行    な行    は行    ま行    や行    ら行    わ行   参考文献 
 AI『竜の柩』  

夏■竜上189・竜下159■

中国古代の王朝名。始祖禹(う)は黄帝の子孫といわれる。最後の五帝・舜のとき、中国を襲った大洪水を治めることに成功し、舜から帝位を譲られ夏后と称した。その死後、子孫が位を継ぎ、最初の世襲王朝となったが、第十七代の桀(けつ)王のとき、殷の湯王に滅ぼされた。殷の卜辞(甲骨文)のような文字史料が未発見で、その実在は未確認であるが、最近、河南省偃師県二里頭遺跡が発見され、夏の存在が強く主張されるに至った。

核攻撃を受けた龍一族はモヘンジョ・ダロからの撤退を決意し、一部はナーガ一族の母体を形成し、一部はヒマラヤを越えて中国に至り、最古の王朝『夏』を建設したと虹人は言った。

夏の支配者である庖犠(ほうぎ)・ジョカは蛇体であり、それに続く神農(しんのう)は人身牛頭であることから、虹人は、中国もまた、牡牛の一族により追い討ちをかけられた疑いがあると推測する。そして、そのとき中国から逃れてきた夏王朝の一部が、原出雲族として君臨したと考えている。『東日流外三郡誌』によれば、龍信仰を持ち込んだと思われるツボケ族が中国大陸から渡ってきたのは、今から4、5千年前であり、これは神農の時代に合致している。

カイセリ■竜下192■

トルコ中央部、アナトリア高原に位置する同名県の県都。古くからの交易の中心地で、カッパドキア王国の首都であった。

グランド・アンカラ・ホテルで、カッパドキア行きの計画を打ち明けた虹人は、アンカラからカッパドキアの玄関口の当たるカイセリまで、飛行機で一時間であると告げる。しかし、車のほうが安全と言う南波の意見に従って、七時間かけてカッパドキアに向かう。

海底二万マイル■新上195■

J.ベルヌの冒険小説。1870年刊。自然学者アロナスとその召使、もり打ちネッド・ランドの三人は、謎の人物ネモ艦長の指揮する万能潜水艦ノーチラス号とともに旅を続け、数々の事件に遭う。SFの先駆となった。

ニプルのジッグラトから、運河の下にあるUFOに乗り込んだ虹人は、「まるで海底二万マイルのネモ船長にでもなった気分だよ」と語る。見張り台の窓から外を覗くと、運河を透かして青い光が広間いっぱいに溢れ、魚までが迷い込んでいた。

怪物君■新上121■

東の高校時代の仇名。甲子園を目指して、予選の決勝まで進んだ東は、地元では怪物君と仇名されていた。シャルケヌと槍投げを競った後で、東自身がこの仇名のことを口にする。

ガウディ■竜下216■■

1852-1926 スペインの建築家。1878年、バルセロナの建築学校を卒業。ゴシック建築の合理性の発展、イスラム風の装飾性などの諸要素を彼独自の感覚で融合し、バルセロナおよび周辺に、その建築を残している。彼の作品は、機能主義建築全盛の風潮のなかで、長く無視、もしくは異端視されたが、今日では、その独自な構造の合理性、アール・ヌーボーの先駆的地位、環境との適応、象徴性など、さまざまな点で再評価されつつある。

カッパドキアには、ガウディの建築にも似た岩が鋸の歯のようにどこまでも連なっていた。

火炎槍(かえんそう)■新下202■

槍の頭に燃える砂が詰められおり、火を点けて投げれば、普通の槍の十倍は遠くに飛び、当たれば屋根まで破壊する威力を持つ武器。エル・ヒッパを攻略しに来た敵の兵士たちは、背中に火炎槍を何本も背負っていた。シャルケヌは、神々から支給される武器の一つだと説明する。虹人は、古代中国で使われていた火槍とおなじものだろうと思った。

火焔土器■新下61■

縄文土器の一種。縄文中期に大型化した土器に粘土紐を貼り付け、豪華な装飾を行ったもの。北陸北半の地方色を示すものである。

ミトジの村の中央に立てられた塔に登ると、円い床があり、その中央の竈には、燃え上がる炎を縁にデザインした見事な火焔土器が置かれていた。

餓鬼■新下146■

仏教において、最高の境界である仏から最下位の地獄までを十位に分かち、下から二番目の悪趣(あくしゅ、悪い境界)の住人を餓鬼とする。絶えず飢えと渇きに苦しみ、咽喉はきわめて細く、腹部はふくれた姿で表されている。

富士の地下王宮で山のように堆(うずたか)く積まれたエイリアンの死体は、ことごとく皮膚が赤く焼け爛れ、腹が膨らんでいた。虹人は腕の細さと頭の大きさから、地獄図に描かれた餓鬼を連想した。

核戦争■竜下158■

モヘンジョ・ダロ近くのガラスの町の一帯は、最低八百度以上の高熱が発生し、急速に冷却したと考えられる。『人類は核戦争で一度滅んだ』という本には、それを可能にするのは核爆弾しかないと書いてある。

虹人はそれに龍の仮説を導入した。シュメールに文明を与えたオアネスがモヘンジョ・ダロのプールにいたと考えれば、核の攻撃も決して荒唐無稽な話ではなくなる。シュメールを脱出して新たな都市を建設した龍の一族に対して、牡牛の一族が追い討ちをかけるように侵入してきて、一進一退の戦闘の末に一発の小型核がモヘンジョ・ダロの外れに落とされた。モヘンジョ・ダロの被害はそうでもなかったが、放射能で汚染されたプールに体を浸しているわけにいかず、オアネスは撤退を決意した。一部はナーガ一族の母体を形成し、一部はヒマラヤを越えて中国に至り、『夏』王朝を建設した。

核兵器■竜下45■

カーリーが、武器を搭載した円盤と考えられるドゥルガーから生まれたこと、肌が黒く十本ずつの手足で並大抵の威力ではないこと、大きな口を開いてアスラたちを飲み込んだこと、勝利のダンスで強く大地を踏み鳴らし、世界すら壊されそうになったことなどの説明を聞いて、南波が「まさか・・・核兵器のことじゃ」と言った。「その他になにが考えられるんです」と虹人はこともなげに断定した。核兵器を落とした後に空から地上を眺めれば、おきな口に飲み込まれていくように見えるし、勝利のダンスも空高く舞い上がるきのこ雲かもしれない。身の毛のよだつ高笑いという描写も投下の際に爆弾が空気を切る金属的な甲高い音だと考えられる。

蔭山優紀■竜上290■

鹿角典正の秘書。東がブリジット・ニールセンにそっくりと表現した美女。出雲の八重垣神社で虹人に接触して来たが、虹人はスパイと知りつつ陽動作戦に利用する。モヘンジョ・ダロでは、鹿角の奇手として、脚を撃たれて車に残される。虹人たちと行動を伴にするうちに、鹿角の行動や、神に対して、疑問を抱くようになる。

鹿島(かしま)神宮■竜上150■

茨城県鹿嶋市に鎮座。常陸国の一宮。旧官幣大社。祭神は建御雷神(たけみかづちのかみ)。記・武甕槌神(たけみかづちのかみ)。出雲の国譲りに功績があった建御雷神は、その後、鹿島の地を本拠地にして東国の開拓、鎮護に当たったとされる。この地方は、古くから中臣氏との関係がふかく、中臣鎌足の鹿島出生の伝えもある。平城京遷都のおり、藤原氏は春日大社に武甕槌大神を勧請し、香取神宮の祭神経津主大神(ふつぬしのおおかみ)とともに東北経営の守護神として尊崇した。

長野の皆神山の山頂にある熊野出速雄(くまのいではやお)神社で、東は虹人に、建御雷神と別雷神が同一人物ではないかと尋ねる。虹人は、建御雷神が茨城県の鹿島神宮と奈良県の春日大社の祭神であり、賀茂神社系列の別雷神とは関係がないと答える。しかし、鹿島神宮と春日大社の造営には、藤原不比等が絡んでおり、藤原氏は別雷神の母である玉依毘売命と混同される玉取り伝説と深い繋がりがあることなどから、虹人は建御雷神と、別雷神のつながりについて考察する。(建御雷神参照)

火車■新上220■

仏教で、生前に悪事をした亡者をのせて地獄に運ぶという、火の燃えている車。

日本においてUFOを意味する言葉。ほかに「うつろ舟」「奇魂(くしみたま)」「天の鳥船」と言う言葉がある。虹人は、シュメールにもUFOを示す文字があったはずだと言う。牡牛を表す楔形文字を見て、プアビはグゥードと言いながら、UFOの床を掌で叩いた。

春日大社■竜上150■

奈良市に鎮座。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)。藤原氏の氏神。768年(神護景雲二)左大臣藤原永手がその氏社として春日山の主峰御蓋山(みかさやま、三笠山)の山麓に創建したという。やがて841年(貞和八)春日山を神山とする勅命が発せられ、それ以降藤原氏氏長者(うじのちょうじゃ)は同氏の繁栄を祈って春日祭祀の振興や春日社の拡充に着手した。(鹿島神宮参照)

春日姫■竜上156■

甲賀三郎の妻。諏訪明神の本地を説く、甲賀三郎伝説に登場する。南北朝時代に成立した『神道集』所収の「諏訪縁起の事」によると、春日姫は、近江国(滋賀県)甲賀郡の地頭、甲賀三郎諏方(よりかた)の妻であったが、伊吹山の天狗にさらわれたため、夫の三郎は、六六ヶ国の山々を探し歩き、信濃国蓼科(たてしな)山の人穴で春日姫を発見し救出する。しかし三郎は兄の二郎のために穴へ落とされ地底の国々を遍歴する。やがて浅間嶽から近江国甲賀郡笹岡にある釈迦堂(岩屋堂)に戻ってきた三郎は、自分の姿が蛇となっていた事を知るが、脱蛇身の呪文を唱え人間によみがえった。その後、春日姫と再会した三郎は、信濃国に諏訪明神として上社に鎮座し、春日姫は下社に祀られた。(甲賀三郎参照)

甲賀三郎が、諏訪大社の化身であり、春日姫が春日大社に繋がる姫であれば、甲賀三郎伝説は、建御雷神(たけみかづちのかみ)を祀る春日大社と諏訪大社が仲間同士になったということになると、虹人は語る。そしてこれを、建御名方神と玉依毘売命との政略結婚であると解釈する。(玉依毘売参照)

火槍■新下202■

モンゴル軍が使用した武器。燧石(ひうちいし)を使って火薬に点火し、その爆発力によって砲弾を飛ばす初期の鉄砲。

片岡千恵蔵■竜下38■

1904-1983 映画俳優。本名植木正義。群馬県生れ。当たり役に、『遠山の金さん』『多羅尾伴内』『宮本武蔵』『国定忠治』などがある。昭和二七年、マキノ・プロに入社。片岡千恵蔵の名のもとに時代劇スターとして脚光を浴びるが、翌二八年、片岡千恵蔵プロダクションを発足させた。三七年、千恵プロを解散し、スタッフ全員を伴って日活へ入社。戦中戦後の大映・東横時代を経て、五一年、東映の設立に参加。東映の重鎮スターとして活躍した。

虹人は、ヴィシュヌ神のトリックスター的な性格を説明するために、片岡千恵蔵が演じた『七つの顔を持つ男』を例に挙げる。

勝男木■竜上246。竜下59■

堅魚木とも書く。神社建築や、古墳時代の豪族の住宅の棟上に横たえて並べた、円柱状の装飾の部材。天皇など高貴な人物の住いのシンボルとして成立し、のちに神社建築のシンボルとして用いられるようになったと思われる。

天孫族が拵えた大社造りの神社は、屋根の上に交差して突き出ている千木と、途中に括り付けられた葉巻のような勝男木が最大の特徴であるが、千木を牡牛の角と見て、勝男木をロケットとみることができる。

鹿角典正■竜上134・304■

ヴァチカン法王庁直属の枢機卿(すうききょう)。鼻筋がとおり、薄い唇、尖った下顎の端正な顔立ちをしている。亡くなった母親が宗像剛三の友人の一人娘だった関係で、小さいとき何度か宗像と会っている。当初は、自分が所属する世界を守る目的で行動していたが、しだいに、本当に龍がこの世にあるものか、自分の目で確かめたいという気持ちに変化して行く。

カッパドキア■竜下192・215■

トルコ東部地方の古代地名。アナトリア高原にあたり、紀元前2000年から、前1200年ころまで、ヒッタイト人に支配された。カッパドキアの渓谷の断崖、あるいは開けた谷間に林立する筍状の岩山には、横穴式にくりぬかれた多くの洞窟がある。この洞窟は、先史時代の遺跡や、ヒッタイト人のものと考えられる横穴式住居跡、また、ビザンティン時代の隠遁修道士により掘られた修道院や穴居跡である。

虹人は、カッパドキアの地下都市には30万人以上の居住が可能だったとされ、一時的な避難場所とすれば、75万人が収容できることから、地下都市は修道士が拵えたものではないと考える。また、この地下都市は、短期間で捨てられたと推測する。そして、カッパドキアの謎に対する答えを、ヒッタイトの神話・天候神テリピヌの伝説に見出す。(テリピヌ参照)

加藤■竜上50■

南波の部下。年齢は二十五、六で純とおなじ年頃。愛想はいいが厳しい目をときどき見せる、立派な体格の男。津軽開発が宗像から買った山に登る際に、道案内役として南波から紹介される。宗像剛蔵が仕組んだ嘘のため、津軽開発に殺された事にされるが、鹿角との出雲での戦い前に姿を見せる。その後も、インド、トルコと虹人たちと生死を伴にするが、アララト山の戦いで、龍を目の前にして倒れ、ともに乗り込むことができなかった。ファーストネームは淳?

金木町■竜上10■

青森県北西部、北津軽郡の町。津軽半島中央部に位置し、東半は津軽山地、西半は津軽平野からなる。太宰治は金木の大地主津島家の生れで、生家は「斜陽館」という旅館になっている。

津軽への偽装取材旅行の際に、斜陽館に宿泊したいという有明蓉の希望で、アクトナインのメンバーは金木町を訪れる。

ガナパトヤ派■竜下37■

ガーナパティヤ派。ヒンドゥー教の神、ガネーシャを主神とする一派。

かつては、ガナパトヤ派がガネーシャをヴィシュヌやシヴァをも超越した最高神と崇め、性的秘儀を行なっていたらしいが、今のインドでは性的な意味合いなど微塵もないと虹人は語る。(ガネーシャ参照)

金屋子神社(かなやこじんじゃ)■竜下275■

島根県能義郡広瀬町に鎮座。たたら師、鍛冶、鋳物師などの間で祀られている火の神・製鉄の神である金屋子神を祀る。

虹人は、天之目一箇神(あまのまひとつのかみ)が出雲の金屋子神社に祀られているという。アラジャホユックの遺跡の小さな博物館で、虹人は鉄と出雲について考察する。

カニンガム■竜下124■

1814-93 インド考古調査局の初代局長。スコットランドに生まれる。ハラッパー遺跡の発見を含む数百の遺跡の探査を行った。

虹人は、考古学者カニンガムがハラッパーを発見しながらも本格的発掘に到らなかった理由として、彼の関心がアショカ王の仏教遺跡に向けられていたからと語る。

ガネーシャ■竜下35■

ガネーシャはシヴァ神とパールヴァティーの息子とされる。彼は身体は人間であるが、象面で一牙を持つ。その信仰は六世紀前後に生じたとみなされる。後代、ガネーシャ信仰は急速に広まり、仏教、特に密教でも取り入れられ、大聖自在歓喜天(だいしょうじざいかんぎてん)となって、日本でも今日に至るまで民衆に信仰されている。

カルカッタからホテルへ向かうタクシーの中で、ガネーシャを描いた宗教画を飾ったトラックを、南波が見つける。虹人はガネーシャの誕生神話を挙げ、インド神話はあまりにも長い年月語られ続けたため分析が難しいと語る。

兜■竜下63■

頭にかぶる鉄製の武具。

神と牛に共通するものは角である。龍にもまた角がある。虹人は、角に対する崇拝は世界全土に散らばっていると指摘する。ヴァイキングたちは牛の角をデザインした兜を被っており、日本の兜も、強そうに見せることと、神と合体することが目的ではないかと言う。

カミナ■新下60■

ミトジの子。おかっぱのかわいい女の子。鼻も高く聡明な顔立ちをしている。村の広場に着陸した船に寄って来た子供たちの中から、東が抱き上げたのがカミナであった。ミトジは、地面に指でカミナの名前を書いた。虹人のみたところ、それは楔形文字の変形のようであり、シャルケヌにも何とか読める文字であった。

雷門(かみなりもん)■竜下42■

東京都台東区東部にある浅草寺(せんそうじ)の南の総門とその周辺の地名。名称は門の左右に配された風神、雷神像によるもので、雷神門ともいった。1865年焼失。1960年再建。

賑やかなカルカッタの市内は、原色の洪水で、南波は浅草の雷門とおなじだという印象を口にする。

神の幕屋(まくや)■新上89■

イスラエル人の荒野放浪時代の移動聖所。幕屋の一番奥の、神が臨在する神聖な部屋を至聖所といい、垂幕で仕切られ、年一回贖罪日に大祭司のみが入りうるとされた。ソロモンが建立したエルサレムの神殿の最奥部の至聖所は正方形で、一対のケルビムと「契約の箱」が安置されていた。

日本の神社の構造が、エルサレム神殿、さらにその原型であった幕屋に似ていると、主張する人もいる。幕屋の聖所と至聖所にあたるのが、神社の拝殿と本殿で、奥の至聖所や本殿が一段高い所にあり、その間が階段で結ばれているのも同じだというのである。また、神社は入り口近くにてみずや手水舎があり参拝前に口や手を清めるが、同様に幕屋でも「洗盤」または「青銅の海」と呼ばれる場所で手と足を洗い心身を清めたのだという。

シャルケヌ軍に捕えられた虹人たちは、スクーターで野営の陣営に連行される。テントの中には、襖の大きさの垂れ幕が四枚吊り下げられており、神社の拝殿のようであった。翌日、ケルビムが浮き彫りになった巨大な黄金の箱を兵士たちが担いでいるのを見た鹿角が、その箱をあかし証のせいひつ聖櫃であると指摘する。虹人たちは、聖櫃が隠されていた昨夜のテントが、神の幕屋であったことを知る。

神産巣日神(かみむすひのかみ)■竜上249・新下78■

別天津神(ことあまつかみ)の一神で、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の次に、高天原に現れた神。記紀神語において、神産巣日神は、須佐之男命、大国主神を中心とした「出雲系神話」に天神として数多く登場する。

九鬼虹人は、別天(ことあま)つ神を天の創造主ととらえている。高御産巣日神と神産巣日神、いわゆる結びの二神が、宇宙に存在する火と水とを結び付げて渦と成したことから、結びとは宇宙を意味する言葉ととらえ、結びについて考察している。(結び参照)

亀ヶ岡遺跡■竜上11■

青森県西津軽郡木造町亀ヶ岡、屏風山から東につきでた標高20mの丘陵を中心とする縄文時代晩期の大遺跡。この遺跡から「奇代之焼物」が出土することは江戸時代初期から知られており、「瓶ヶ岡(かめがおか)」呼ばれるようになったという。1895、96年佐藤伝蔵が発掘を行い、日本にも泥炭化した遺物包含層があることをはじめて明らかにした。出土品は、土器や石器のほかに骨角製品、らんたい籃胎漆器を含む植物製品などがある。この遺跡の土器を基準とする亀ヶ岡式土器という名称は今日でも東北地方の縄文晩期の土器を総称する用語となっている。

亀嵩(かめだけ)■竜上240■

島根県東部、斐伊(ひい)川上流の小盆地に位置する仁多郡仁多町の東部地区。1955年、亀嵩を含む四村が合体して仁多町となった。亀嵩は十九世紀に始まった雲州そろばんの発祥地で、現在もそろばん生産が行われている。

松本清張の『砂の器』の舞台になった山村としても有名で、東北地方と共通するズーズー弁が関東以南で唯一認められるところである。

松本清張の『砂の器』には「出雲の音韻が東北方言に類似していることは古来有名である。たとえば「ハ」行唇音の存在すること、「イエ」「シス」「チツ」の音の曖昧なること、「クゥ」音の存在すること、「シェ」音の優勢なることなどを数えることができる。」「このズーズー弁の原因について次のような諸説がある。(一)ズーズー弁は日本の古代音であるという説」「(二)地形ならびに天候気象によるという説」とある。

虹人は、出雲の人々が津軽に逃れたという仮説に立ち、亀嵩こそ東北弁のふるさとなのだと思う。

賀茂神社■竜上128■

京都市にある賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)と賀茂別雷(わけいかずち)神社(上賀茂神社)の両社の総称。両社は賀茂川に沿って約3kmほど離れて鎮座する。賀茂神社の縁起は、『釈日本紀』所引の『山城国風土記』逸文にみえる。山城の賀茂建角身命(たけつのみのみこと)には、玉依日子(たまよりひこ)、玉依姫(たまよりひめ)の二子があった。玉依姫が瀬見(せみ)の小川(賀茂川の異称)のほとりに遊ぶとき、丹塗矢(にぬりや)が川上より流れ下り、これを取って床の辺に挿し置くうちに、ついにはらんで男子を産んだ。長ずるに及び七日七夜の宴を張り、賀茂建角身命がこの子に「汝が父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」と言ったところ、酒杯をささげて天に向かって祭りをなし、屋根を突き破って昇天した。これが上賀茂神社に祀る賀茂別雷命である。賀茂御祖神社(下鴨神社)には賀茂建角身命と玉依媛(たまよりひめ)を祀り、社家の賀茂県主(あがたぬし)氏は玉依日子の後裔だという。長岡京遷都に続く平安遷都によって、賀茂神社は王城鎮守の神として脚光を浴び、806年(大同一)には賀茂祭(葵祭(あおいまつり))が勅祭となった。

皆神山の山頂に続く道を歩きながら、虹人は『真説・古事記』の内容を簡単に説明する。その中で、皆上山の麓に玉依毘売命神社があることが、皆上山を日本のピラミッドと見做す根拠のひとつとなったことを語ると、南波が田舎の賀茂神社にも玉依毘売命が祀られていた言う。虹人は、皆上山にあるのは賀茂神社のような合祀ではなく、玉依毘売命が主神であるという。

神魂(かもす)神社■竜上240■

島根県松江市大庭町に鎮座。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。出雲国造家の斎場が独立したものと言われ、平安中期以降の成立と見られる。出雲国造が杵築に移った後、明治初年頃まで国造の代替わりの際の火継(ひつぎ)神事を行っていた。神魂神社本殿(国宝)は、1583年火災の後再建され、大社造のもっとも古い遺構とされる。社伝によると、この地は、天穂日命(あめのほひのみこと)が神釜に乗って高天原から来た場所とされる。

出雲大社に程近い竹野屋旅館で、地図を見ながら出雲巡りのコースを検討した虹人は、明後日の予定に神魂神社を入れた。

ガラスの町■竜下156■

黒いガラス質の石で覆われた廃墟。モヘンジョ・ダロの遺跡にほどちかい砂山のふもとに、縦横四百メートルぐらいの範囲で、高熱でガラス化した黒い小さな石で覆われた地面がある。その中には、ねじれてガラス状になったつぼの破片や、くっついた煉瓦の破片が混じっている。このガラスの町は、現地人にとっては、先祖から言い伝えられてきたタブーであるという。『人類は核戦争で一度滅んだ』という本の中では、モヘンジョ・ダロは核戦争で滅び、ガラスの町はその爆心地であったとする仮説が展開されている。

虹人は、ガラスの町で、溶けて断面に気泡ができた土器を目の当たりにして、少なくとも千五、六百度まで熱が上がったのだろうと実感する。

カラチ■竜下100■

パキスタン最大の都市で、独立以後一九五九年までの仮首都。インダス河口西方に位置する。

尾行している女が、捜索隊のただ一人の生き残りであるソフィと知って、虹人たちはインドに一日滞在しただけで、パキスタンに向かう。降り立ったカラチの風景は乾燥して白茶けており、息を深く吸い込んだ虹人の肺に、熱せられた空気が飛び込んできた。

カーリー■竜下37■

ヒンドゥー教の主神シヴァの妃であるドゥルガーが恐ろしい形相をとった時の呼称とされるが、元来は別の神格であったようである。カーリー女神は牙のある口から長い舌をだらりとたらし、黒くて充せ細ったおぞましい姿で図像化される。しばしば四本の腕を持ち、その一つ一つに、パーシャ(捕縄)、カトバーンガ(先に頭蓋骨のついた杖)、剣、生首を持つ。

カーリーはドゥルガーという戦闘の女神の額から出現する。虹人は、ドゥルガーを、武器を搭載した円盤であるとし、カーリーは円盤に搭載され武器の一種に違いないと考えている。そして、カーリーの肌が黒いこと、威力がすさまじいこと、大きな口を開いてアスラたちを飲み込んだこと、強く大地を踏み鳴らし世界すら壊れそうになったことから、カーリーを核兵器であると推察する。そして、カルカッタは核兵器の製造工場か、格納庫が建設されていたのではと述べる。(ドゥルガー参照)

カーリーガート寺院■竜下37・72■

カルカッタにある女神カーリーの寺院。現代でも、この女神のためにヤギの首を斬るなど血なまぐさい儀式が行われている。

カーリーガート寺院を訪れた虹人たちは、カーリーの象徴として祀られている真っ黒い岩が、床に置かれてあるのを見る。東は、津軽の荒磯崎神社にも、表面がつるつるした同じような岩が飾ってあったことを思い出す。

軽井沢■竜上192■

長野県東部、北佐久郡の町。避暑地として有名。1886年イギリスの宣教師A.C.ショーが、旧軽井沢の民家を借りて夏を送ったことから避暑の歴史が始まった。

虹人は、津軽と長野の繋がりについて、青森県に軽井沢という地名が十以上もあることを挙げる。そして、それらの場所が長野の軽井沢と雰囲気が似ていることから、長野から津軽に移住した人間が故郷を慕ってつけた名前に間違いないだろうと言う。

カルカッタ■竜下31・37■

インド北東部、西ベンガル州の州都。周辺諸都市と大都市圏を形成する。1772年から1912年には英領インドの主都であった。

虹人たちは、成田から出発して9時間後、早朝にカルカッタに着いた。昇降口が開けられた瞬間、熱気に混じってムッと様々な匂いの混じった空気が機内に入り込んできた。カルカッタの古い呼び名はカーリーカタ。カーリーが支配する都であると虹人は説明する。(カーリー参照)

カルデア人■新下234・235■

もともとバビロニア南部の沼沢地帯に住んでいたセム系民族。カルデア人は前8世紀までに南バビロニア一帯に部族に分かれて定着し、名目的にはバビロン王に臣従していた。バビロンは、アッシリアの直接・間接の支配を受けが、アッシリア帝国が滅びた後、カルデア人ナボポラッサルによって新バビロニア王国(カルデア王朝)が建てられ(前625)、ネブカドネザル二世の治世に最も繁栄した。イスラエルの民のバビロン捕囚もこの王の治世中のことであった。

ネブカドネザル二世の父、ナボポラッサルは、弱小国家カルデアの一地方を支配していたに過ぎなかったが、短期間でカルデア全土を支配下に治め、第三次バビロニア帝国の基礎を形成した。ナボポラッサルがどうしてそれだけの力を手にしたのかについて、虹人は、ナボポラッサル自身が言うように、マルドゥクの加護があったとでも考えない限り解けない謎だと言う。

カレー■竜下83■

インドを中心として、中近東から東南アジア、さらに今日では広く世界各国で使用されている混合香辛料で味付けした料理のことをさす。カリーと呼ぶことも多い。

インドに着いてから、虹人たちは、カレーにも多くの種類といろいろな味があることを知る。虹人は、カレーの語源はカーリーらしいと言う。

河口湖■新下102■

山梨県富士山麓にある富士五湖の一つで、そのほぼ中心にある。

イシュタルの円盤で、縄文時代の富士山を上空から見た虹人は、山中湖と河口湖の間の斜面に、広大な溶岩流の痕跡を認める。虹人は、富士の地下王宮を発見するために、イシュタルに溶岩流の範囲の密度を調べてもらうが、成果は上がらなかった。

川中島■竜下306■

信濃国水内郡川中島。戦国期に甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とが、北信濃の領有をめぐって対戦した合戦の場所。おもな対戦だけでも五度が数えられるが、このうち特に有名なのは、一五六一年九月に両軍が川中島で対戦したものであり、双方が総力戦を展開し、勝敗が決しかねるほどの激戦になった。俗説ではこの時に、信玄と謙信の一騎打ちがあったように言われているが、その真偽は定かでない。

アララト山中のトニオのテントの中で行なわれた作戦会議において、危険を承知で山頂を目指し、そのまま一気に方舟の埋められている現場まで行くことが決定する。本陣を突っ切るのが一番という南波の言葉に、東は川中島だなと頷きながら口にした。

川守田英二■竜上85■

1891-1960 神学者。サンフランシスコで邦人のキリスト教会の牧師をしていた。『日本へブル詩歌の研究』で、日本の民謡とくに囃子詞の多くはヘブル語であると主張した。戸来一体で昔から唄い継がれてきた民謡である「ナニャドヤラ」は、日本語としてみると何のことか分からないが、ヘブラル語として読むと非常に良く意味が通るという。(ナニャドヤラ参照)

環状列石■竜上83■

ストーン・サークル。柱状の自然石を立て並べて環形とした巨石記念物の一種。同心円状に二重、三重にめぐることも多い。その大きさはいろいろで、環の径は50m以上の大型のものから2mに満たない小型のものまである。

虹人が「十和田文化圏」を説明するために、大湯ストーンサークルの名を挙げると、蓉は代表的な環状列石であることを知っていた。

ガンジス河■竜下163■

インドの聖河。文明の古さや人口の密集など文化的意義において世界有数の大河といえる。

虹人は、ガンジス河流域が栄えるようになったのは、モヘンジョ・ダロが滅びてからだと言う。牡牛一族が、モヘンジョ・ダロを残す価値がない都市と判断したためか、あるいは、必死の抵抗に業を煮やしたためかもしれないと語る。

神田の事務所■竜上10■

テレビ番組制作会社「アクト・ナイン」の事務所。

カンチェンジュンガ■新下19■

ネパールの北東端とシッキムとの国境にそびえる世界第三位の高峰。標高8598m。

イシュタルの円盤でプアビの町を発って二時間後、東はエベレストの向こうにカンチェンジュンガをみつけ、自分たちのいる星が地球であるという確信を持つ。

カンミオヤクマノオオカミクシミケヌノミコト■竜上281■

神祖熊野大神櫛御気野命。『出雲風土記』の神の名。島根県の熊野大社の祭神。カンミオヤとは偉大な神の祖先、クマノは鎮座した場所である熊野を意味するという解釈と、クマは神に捧げる霊力のある米、クシは神秘、ミは御、ケは食物、ヌは主で、神に捧げる神聖な食物を与ええくれる神という解釈がある。

虹人は、クマノをクママノと考え、マノはエジプト脱出の際に神が与えた神聖な食料マンヌであると説明する。クマノとはクマンヌが縮まったもので、日本語のクマすなわちマンヌという意味に解釈する。

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祇園祭■新上106■

京都の祇園社(現、東山区八坂神社)および同社を勧請した地方の祭礼。京都の祇園祭は山鉾の巡行を中心とした盛大な祭礼として日本三大祭の一つに数えられている。

虹人は、牡牛の神を祀る八坂神社の主催する祇園祭は、随所にペルシアなどとの関連が指摘されていると語る。

キジ鍋■新下94・280■

ミトジの村を最初に訪れた時に、東が自分で調理した鍋。塩味だけの鍋だが、様々な茸と野生のキジの脂が旨味を出していた。タイムマシンに乗り込むために、二度目に村を訪問した際にも、ミトジにキジ鍋を勧められるが、虹人は、「そいつは魅力的な誘いだけど・・・」と、笑って断った。

キシュ■新下10・195■

シュメールの古代都市。「シュメール王名表」には、大洪水のあと最初に王権が下った都市としてあげられ、シュメール人とアッカド人が混住していた。キシュ以外を統治する強力な王のなかに、「キシュの王」という肩書を加えているものがいることは、初期王朝期におけるキシュの重要な地位を示している。

シャルケヌの名前は、キシュの遊牧民であった養父がつけた。ルガル・ザグギシが新王となると、シャルケヌは、北の都市キシュに居を構え、着々と軍備を整えた。

菊花紋■新上111■

菊の花を象った紋章。菊花が皇室の紋章として固定したのは、鎌倉時代に後鳥羽上皇がこの紋様を愛好したのに始まるという。菊花紋を皇室以外で用いるのをはっきり禁止したのは1871年(明治四)で、天皇家は十六花弁の八重菊、皇族は十四花弁の裏菊と定められた。

虹人は、空を表し同時に天の神を意味する象形文字を、天皇家を象徴する十六花弁の菊の原型であると語る。さらに、シュメールの遺跡の神殿と見なされる地域に限り、十六花弁の菊花紋とまったく同様のものがいくつも見つかっていることから、日本人の起源をオリエントに求める学者たちは、この象形文字と天皇家の菊花紋の類似を唱えていると述べる。

黄粉餅■竜下320・新下176■

東がアララト山の戦いの前に見た夢。鹿角と東が黄粉餅食い競争をしていると、虹人が現れて鹿角のほっぺたについた粉を舐める。嬉しくなった東は、平泳ぎをしながら沖に向かう夢。鹿角と和解できるという予言だったと東は言う。

キネクサビ文字■竜下60■

マックレオドが古代日本に見られる楔形文字として命名した文字。これが、変形してアヒル文字という神代文字になったという。(アヒル文字参照)

貴船神社■竜上48■

京都市左京区鞍馬貴船町、賀茂川の上流である貴船川の渓谷の地に鎮座。水の神である龍蛇神(高オカミ)を祀る。一般の信仰も篤く、全国に勧請された。

神明宮で、藁の龍を見つけた虹人は、役場の男に龍信仰について尋ねたところ、津軽には、龍である十和田様を祀る貴船神社がたくさんあると教えられる。

キャトルミューテーション■新上209■

牡牛が全身の血を抜かれて殺される怪現象のこと。宇宙人による動物実験であると解釈されている。

ギリシャ神話の神、ゼウスとポセイドンは牡牛と同一視されているにもかかわらず、犠牲として牡牛の血を要求する。虹人はこれをキャトルミューテーションと繋がりがあるかもしれないと考え、キャトルミューテーションの本当の意味は牛ということにあるのでは、と考えている。

キュルテペ■竜下260■

トルコのカッパドキア地方、クズルウルマク川南方台地上の遺跡丘。アッシリア語でカニシュ、ヒッタイト語でネサと呼ばれた都城の遺跡で、前19〜前18世紀ころ、ここにアッシリアの商業植民市が置かれ、アッシリア語で書かれた経済文書「カッパドキア文書」が多量に出土している。

アラジャホユックの本格的な発掘調査がなされていない理由について、虹人は、トルコにはポアズキョイや、キュルテペなどの重要な遺跡がたくさんあるからと語る。

極移動説■新上212■

世界各地で現在の地球磁場と逆方向に帯磁した岩石が発見されて、地磁気の逆転が証明されている。地球磁場を双極子磁場と仮定すれば試料の採集地点の緯度、経度、磁化方向から磁気的北極の位置を計算で求めることができる。この位置を古地磁気極、年代による位置変化の様子を極移動と呼ぶ。1964年コックスは過去360万年間に地磁気は9回反転したことを示し、現在では8000万年前までに、明確な反転は97回余りあったと言われている。

極移動が地球磁場の一側面の現れであると考えると、極移動の軌跡に地域差はないはずであるが、実際は世界各地で求めた極移動の軌跡は異なっている。1912年にウェゲナーによって唱えられた大陸移動説は一旦否定されたが、古地磁気学によって復活し、極移動曲線が一致するように地域の相対位置を移動させる大陸移動説が出されてきた。第三紀の初期に西南日本と東北日本がフォッサマグナの所で約40度折れ曲がったこと、イギリスが三畳紀に30度回転したこと、紅海が以前は閉じていたことなども、古地磁気の研究によって明らかになった。

清原氏■竜上37■

天武天皇皇子舎人(とねり)親王の後裔氏族。出羽の俘囚(ふしゅう)の長として勢力をふるった清原氏は、その地の豪族が、現地に赴いた清原氏の一族とかかわりをもち清原姓を名乗るようになったものと思われる。清原氏は、はじめ出羽国仙北三郡の豪族であったが、前九年の役に参戦し安倍氏を滅ぼすと、安倍氏の旧領の奥六郡をあわせて、奥羽最大の勢力になった。しかし、一族内部の対立のために後三年の役がおき、清原武貞の後妻である安倍頼時の娘の連れ子・清衡が、源義家の力を借りて、異父弟である清原家衡を打ち破った。清衡は乱後、父親である藤原経清の姓・藤原に復し、安倍・清原の遺領を継承して、奥州藤原氏四代の繁栄の基礎を築いた。

十三湖を一周する車の中で、虹人は東たちに『東日流外三郡誌』について説明をする。そこに記された東北の歴史のなかで、清原氏のことが語られる。

鬼門■竜下176■

陰陽道でもっとも悪いとされる丑寅(うしとら、艮)すなわち北東の隅をいう。これを表鬼門とし、また、その正反対の未申(ひつじさる、坤)すなわち南西方も裏鬼門として忌み嫌った。

虹人は、東北に逃れた原出雲族の指導者クべーラ=毘沙門が、なぜ北方鎮護をつかさどるのかについて考察する。虹人は、毘沙門が鎮護した北方を鬼門ととらえた。鬼門は、死の世界であるので、鬼門封じは、冥界の王となった大国主命の怨霊封じと同じ論理が働いていると推測する。つまり、滅ぼした敵の首謀者を神に祀り上げることは、首謀者自身の怒りを封じ込めるのと同時に、従って死んでいった無数の怨霊に対する慰めにもなる。それは、結局、鬼門の鎮護の役目を果たすことになり、それで毘沙門も鬼門、北方の鎮護者に担ぎ上げられたと考える。

キリコ■竜下133■

1888-1978 イタリアの画家。二十世紀はじめ、イタリアで生まれた形而上絵画の代表的画家。作風は無人の街の片隅や広場、地平線への広がりといった建築的要素が支配的であり、顔のないマネキン人形や謎に満ちたオブジェが次第に加わっていった。

微かな風以外なに一つ物音がしないモヘンジョ・ダロ遺跡は、煉瓦の壁の影が白い地面にくっきりとした輪郭を見せていた。虹人は、少女でも遊んでいればキリコの描いた白昼夢の世界だと思う。

ギリシア・クロス■新下74■

中心から広がる四本の線の長さが等しい正十字のこと。マルタ十字とよばれる。この十字はアッシリアでは天空神アヌの象徴で、円と八本の光線を伴い太陽や星をあらわすものとしても使用され、ギリシアでは太陽神アポロンの象徴とされた。青銅器時代から存在し、銅器やケルト人の宝飾類のデザインにも見られる。さらに南北アメリカ、特に中央アメリカで多く見られ、トルテカ族では天水を分配する神、北アメリカのダコタ族やナバホ族では四方の風や太陽、星をあらわし、メキシコでは世界の中心である「生命の樹」(または「宇宙樹」)をあらわす。中国では四角の中の十字(漢字の田)として大地を象徴したものと考えられる。

チャーチワードは、ギリシア・クロスをムー帝国の紋章であると主張している。九鬼虹人は、ムーの存在を受け入れないとギリシア・クロスの広がりは説明できないと言う。そして、それが見つかっている地域には、大洪水から逃れた人々が自分たちのたちの祖先であると言う共通の神話が残されていると語る。日本では、絵としては残されなかったが、結びの神がすわちギリシァ・クロスであり、日常の中に宇宙の生成に関わる十字への信仰が残されていると考えている。(結び参照)

キリストの墓■竜上84・新下33■

青森県新郷村(旧地名・戸来村)にある十来塚のこと。『竹内文書』によると、キリストは、十和田文化圏で教育を受けたという。そして、十字架で処刑されたのは弟のイスキリであって、キリストは復活の芝居を演じた後に日本に逃れ、能登に上陸した。その後、十和田を訪れ、迷ヶ平を終焉の地と選んだ。キリストの遺体は、戸来岳で風葬され、四年後、白骨を埋葬したという。昭和十年、竹内巨麿らが、突然戸来村を訪れ、「この村に、キリストの墓があるはずだ」と明言し、十来塚を発見する。竹内は、これこそ文書に記されたキリストの墓だと断言し、「戸来」は渡来の当て字であると説明した。その後、キリストとの関連を示すようなものが、戸来村から見つかった。それは、キリストの墓がある沢口家の家紋が、ユダヤの象徴である六芒星、いわゆるダビデの星に酷似していたこと。沢口家は「ミコのアト」と呼ばれること、乳児を初めて外に出す時に、額に墨で十字を書く風習があること、野良着がユダヤの衣類と類似していること、子供のチャンチャンコの背中に、必ずダビデの星を縫いつけたこと、昔から唄い継がれてきた民謡である「ナニャドヤラ」が、ヘブライ語に直すと、意味の通じる唄になることなどである。

虹人は、十来塚をキリストの墓とは信じていないが、根本資料は存在したと考え、東北に古代文明が存在したのは確かだろうと述べている。

麒麟■新上134■

中国古代の想像上の動物。その形態は体が鹿に似て頭に角があり、一回の跳躍で何万里を飛翔するという。麒麟は、鳳凰(ほうおう)、亀、龍と並んで四霊と呼ばれた。

虹人は、四霊の一つである麒麟も、龍と同様に、UFOから生まれたイメージだという。龍と麒麟は確かに似たようなものだが、厳密に言うなら種類が違うと語る。龍は大型のロケット。麒麟は脚の形から想像できるように、アメリカの月面探査船に似たものであろうという。

ギルガメシュ叙事詩■竜上327■

古代オリエントで広く流布した英雄叙事詩。実在の王ギルガメシュは、早くに神話的人物となり、シュメールの断片的な神話物語に登場する。これをもとにしてアッカド語で編集されたのがこの叙事詩である。ギルガメシュはウルクの城主で、三分の二が神、三分の一が人間であった。はじめ暴君だったのでウルクの人びとは天神アヌにこのことを訴え、アヌの命令で粘土から野人エンキドゥが創り出され、エンキドゥはウルクで、ギルガメシュと力比べをした。戦いは長く続き、互いに力を認め合って友情が生まれた。こののち二人は杉の森の怪物フンババ征伐に行き、苦戦の末フンババを倒した。美の女神イシュタルはギルガメシュの雄々しさを見て、夫になってくれるよう頼むが、ギルガメシュはこの女神の移り気を知っているので、あざけってその願いを退けた。イシュタルは怒り、父の天神アヌに「天の牛」をウルクへ送ってここを滅ぼすよう求める。「天の牛」はウルクで多数の人を殺すが、ギルガメシュはエンキドゥと力を合わせてこれを倒した。神々はその罰としてエンキドゥの死を決定し、彼は熱病にかかって死んでしまう。ギルガメュは涙を流し、「永遠の生命」を求めてさまよい、永遠の生命を得たというウトナピシュティムを探しあてる。そして、その秘密を尋ねると、彼は、その昔生じた大洪水からエア(エンキ)神の教えた通りに箱船を作って助かったことを語る。しかし彼も、永遠の命の秘密は知らなかった。ギルガメシュはあきらめのうちにふるさとウルクへ戻る。

1872年、G・スミスは、アッシリア語で書かれたニネヴェ版に、ノアの洪水物語に類似した話があることを指摘した。

ノアの方舟捜索隊に参加して遭難した兄の死の真相を確かめたいという森下信子に、虹人は、ノアの方舟の基になった話が、バビロニアに伝わる『ギルガメシュ叙事詩』の一部であることを語る。

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グゥド■新上103■

シュメール語で牡牛を現す言葉。牡牛の楔形文字は、牡牛の形をあらわすの象形文字を九十度傾けたもので、ロケットが飛行しているような形である。

また、グゥドという発音は、英語のグッドに似ており、グッドの語源は神・ゴッドである。つまり、虹人は、英語で言う神とはシュメール語では牡牛となり、その楔形文字はロケットに酷似しているという。また、日本では牛を「ぎゅう」ともいい、これはグゥドの発音が変化したものとも考えられるが、本来日本や中国でも牛をグゥと発音したはずだという。牛頭天王も、グゥド天王を牛頭天王と表記したものであると語る。

久我■竜上128■

山城国乙訓郡(現、京都市伏見区)にある地名。建角身命が、最後に定住した所。(建角身命参照)

賀茂神社の説明の際に出てくる。

九鬼虹人■竜上10■

テレビ番組制作会社「アクトナイン」のヘッド。龍の謎を追い、津軽、長野、出雲、さらにはインド、トルコと旅を続けながら、虹人は様々な仮説を提唱する。龍の秘密を守ろうとするバチカンとの死闘の末、ついに虹人はアララト山で龍=ロケットに乗り込む。龍に運ばれ、虹人が降り立ったのは、龍一族と牡牛一族の激しい戦闘が繰り広げられている、4000年前のシュメールであった。そこで、神=エイリアンをはじめ様々な仮説の証明がなされるが、未来を知っているということが、虹人自身を神に近い存在としてしまう。歴史への介入を恐れる虹人であったが、自分はただの人間であり、人間には現在しかないという意識から、戦争の終結に向けて牡牛の神の指導者の一人・ブトー=須佐之男命と交渉する。ブトーが和平を進言してくれると確信した虹人は、縄文時代の洞窟にあったタイムマシンに乗り込み、4000年前の世界に別れを告げる。

草薙(くさなぎ)の大刀■竜上218 竜下271■

須佐之男命(すさのおのみこと)が、八俣大蛇(やまたのおろち)の尾の中からみつけた剣のこと。尾の中にあった時は、都牟刈(つむがり、または都牟羽(つむは))の大刀といったが、須佐之男命が天照大神に献上し天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)となる。天照は、皇孫邇邇芸命(ににぎのみこと)を葦原(あしはら)の中つ国に天降らせる時に、この大刀を授ける。垂仁紀には、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)をして、この大刀を伊勢の五十鈴川のほとりに移し祀らせたとある。景行記、景行紀によれば、東征の途中伊勢に立ち寄った日本武尊(やまとたけるのみこと)が、おばの倭姫命からこの剣を授けられ、相模で国の造(みやつこ)に欺かれて野に火をつけられたとき、草を刈りはらって火を退けた。そのため、この天叢雲剣を以後、草薙の剣という。しかし、日本武尊は帰途、草薙剣を尾張の宮簀姫(みやずひめ)のもとにとどめたまま伊服岐(いぶき)の山の神を討とうとして病没したため、剣は尾張に祀られることとなったという。三種の神器の一つ。

宗像剛三の屋敷の二十畳の和室で、虹人はヤマタノオロチ伝説を解説する。

アラジャホユックの小さな博物館で虹人は、ヤマタノオロチ伝説を、須佐之男命が製鉄技術を持った龍一族を平定して、草薙の剣を手に入れた伝承と解釈する。草薙の剣は、自分たちのものとは異なった剣であると書かれていることから、明らかに鉄の剣を意味していると言う。

楔形文字■竜上326。竜下60■

古代オリエントで使用され、字画のそれぞれが楔の形をした文字の総称。シュメール系楔形文字は高度のシュメール文明を背景にして3000年近く古代オリエント全域で使用された。シュメール系楔形文字の最古資料は、メソポタミア南部の遺跡ウルクの第4層で発見された絵文字に近い古拙文字で、前3100年ころに比定されている。文字の発明はおそらくこの時期にウルクにおいて行われたと思われる。

ノアの方舟の基になった話は、バビロニアの神話の中に含まれている。ジョージ・スミスが、独学で楔形文字の解読を習得し、ニネヴェで発掘された膨大な粘土板を解読してこれを発見した。

日本とユダヤがおなじ種族であると最初に言い出したマックレオドの本に、シュメール人の用いていた楔形文字が古代日本にあると書かれている。

櫛名田毘売(くしなだひめ)■竜上126■

記紀の八岐大蛇(やまたのおろち)退治神話に出てくる乙女。足名椎神・手名椎神の娘で、その名は稲田の豊饒をあらわしている。年ごとにやってきて娘を食う大蛇の犠牲となろうとしたところに、出雲に天降った須佐之男命現れ、櫛名田毘売を妻に貰い受けて八岐大蛇を退治する。

山田久延彦氏がとなえる「東海出雲説」の根拠は、手長・足長大明神が諏訪湖の側に鎮座していることではないかと虹人は考える。手長・足長を知らなかった東に、虹人は、櫛名田毘売の両親である手名椎、足名椎のことだと説明する。

クズライ■竜下186■

アンカラ最大の繁華街。

虹人が、グランド・アンカラ・ホテルの六階から眺めると、クズライ周辺には遠目にも喧噪が窺われた。

口遊(くちずさみ)■竜上244■

平安時代の幼学書。源為憲(みなものとためのり)が藤原為光の子誠信(松雄君)のために書いた。口に唱えて暗誦しやすいように編集されている。970年(天禄一)成立。口遊の大屋(たいおく)の誦に「雲太、和二、京三」として、出雲大社の神殿は、「和二」の大和東大寺大仏殿や、「京三」の京の大極殿の高さよりも大きいといわれた。

出雲大社を訪れた虹人は、初期の出雲大社本殿の高さは、今の四倍で百メートル以上もあったと文献にかかれているという。平安時代でも、口遊によれば、五十メートル近い高さがあったことは間違いないと語る。(出雲大社参照)

岐神(くなどかみ)■新下117■

日本神話の神の名。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)がこの世と黄泉の国を分けるために黄泉比良坂(よもつひらさか)に引きふさ塞いだ千引石を「塞坐黄泉戸(さますよみど)大神」と呼び、伊弉諾尊が「此よりな過ぎそ」といって投げた杖が「岐神(ふなとかみ)」になったという。岐神(くなどかみ)は、境の神として道祖神と同一視される。(道祖神参照)

古代の人々は、塞坐黄泉戸大神と岐神とを男根と女陰とに象徴させた。杖は、もともと男根の形をしていたとも想像できる。東南アジアやヒマラヤ辺りにも、男根を象った石には魔除けの力があると信じられているが、これは日本の神話の影響が東南アジアやヒマラヤに伝わったと考えるより、男根の形をした塞の神が日本に伝来したとみるのが正解であろうと、虹人は言う。そして、その考えを持ち込んだのは、龍の一族であると推理する。その根拠は、天照の親神であるイザナギを救った神であるにもかかわらず大きな神社に祀られていないこと、福の神に祭り上げられていること、分布が龍一族の勢力範囲に多いことである。牡牛一族は、龍一族が信仰していた男根形の神の力があまりにも強大であったために無視できず、また崇りを防ぐ目的で、自分たちの神に取り込んだと語る。

国つ系の神々■■

『記紀』などの日本神話で、高天原の神々に対してこの地上に出現した神々、ならびに天津神の後裔で、地上に土着して活躍する神々、また、国土の各地方の有力な神々をいう。国学者の矢野玄道(やのはるみち)は、(1)天神に対するもの、(2)天神に先立って国土のある地方をつかさどるもの、(3)うぶすな産土神を指すもの、(4)海中の神を指すもの、の四種に分けている。

国譲り■竜上223・竜下160■

『記紀』において語られる神話で、大国主神が支配していた葦原中国(あしはらのなかつくに)を天照大神に譲った次第を語るもの。

『古事記』は次のように記す。天照大神は「葦原(あしはら)の水穂(みずほ)の国は、我が子・天(あめ)の忍穂耳命(おしほみみのみこと)が治めるべき国である」として、忍穂耳命を天降そうとした。しかし、天の忍穂耳命が天の浮橋からみると、葦原の水穂の国がひどく騒がしい。そこで天照と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の命令で、思金神(おもいかねのかみ)をはじめ多くの神々が相談し、天菩比神(あめのほひのかみ)を遣わした。しかし、この神は大国主命にへつらい、三年経っても返事をしなかった。次に、天若日子(あめのわかひこ)を遣わしたが、天若日子は大国主命の娘、下照比売命(したてるひめのみこと)を娶って八年たっても復命しなかった。そこで神々は、建御雷神(たけみかづちのかみ)に天鳥船神(あまのとりふねのかみ)を副えて遣わす。建御雷神は、出雲の伊耶佐(いざさ)の小浜に降りたって、大国主命に次のように詰問した。「天照大神と高木の神は、お前が支配している葦原の中つ国は我が子の治めるべき国であるとおっしゃっている。お前の心はどうか」これに対し、大国主命の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)は、「恐れ多いことです。この国は、天津神の御子に献上なさいませ」と言って、自分の乗っていた船を傾けて、逆手を打ち青柴垣(あおふしがき)の中に隠れた。大国主神のもう一人の子である建御名方神(たけみなかたのかみ)は、建御雷神と力競べをするが、敗れて信濃国の諏訪湖に逃れ、服従を誓う。ここにおいて、二人の父である大国主命も国譲りを誓う。

龍一族を倒した須佐之男命は、政治の実権だけを握り宗教には目を瞑ったため、出雲には龍信仰が残っていたと虹人は考える。それが、後の大国主命の時代に急激に復活したが、彼の統治した時代は短かったために、出雲における龍信仰の痕跡は、天孫族によってことごとく払拭されたと言う。そして、出雲を脱出した人々が津軽や諏訪に行き、龍信仰を残した。その過程は神話に出てくる大国主命の国譲りなどというのんびりとした話ではない。背後には壮絶な闘争があったはであると虹人は語る。

クベーラ■竜下83・172・284・新上210・新下120■

クベラ(倶尾羅)。古代インド神話にみられる神。ヴェーダ神話ではヤクシャ(夜叉)やラークシャサなど、邪悪なものの長とみなされて、悪鬼どもの首領という位置にある。ラークシャサは、火のように光る眼と大変長い尾を持つ。一方、地中の鉱石はクベーラの手によって掘り起こされると言われ、九つの宝物の守護者という性格も持つ。また、『ラーマーヤナ』では、クベーラはラーヴァナの兄弟として南インドとランカー島を領有していたとも言われる。ラーヴァナはラークシャサの中で最も邪悪なランカー島の王で、ラーマの妻シーターを奪ったとされる。

仏教に取り入れられた後は、毘沙門天(多聞天)となり、北方を守護する。拘毘羅(くびら)毘沙門と称されることもある。毘沙門天は、また七福神の一人ともなり、福を授ける神として庶民信仰が広まった。

虹人は、モヘンジョ・ダロを、『リグ・ヴェーダ』や『マハーバーラタ』にある城塞都市ランカであると考える。ランカの建設主はクべーラで、クベーラに仕える阿修羅や夜叉の語源は、「水に仕えるもの」という言葉である。これは、オアネスに仕えるという意味にもとれる。クベーラは、ヒンドゥー教に取り込まれた後、仏教に導入されて毘沙門天となる。虹人は、聖書世界の神々によって、最も忌み嫌われた邪教の支配者バアルが、シュメール文明を建設したオアネスであり、モヘンジョ・ダロに棲みついていたクベーラと述べる。(毘沙門天参照)

くまで■竜上250■

『古事記』の国譲りの部分に、大国主命が「あ僕は百(もも)足(た)らず八十(やそ)くまでに隠りてはべらむ」と建御雷神(たけみかずちのかみ)に答える。

脚注では、「多くの道の隅(くま=曲がり角)を経て行く遠いところの意味で、幽界を言う」とあるが、幽界ならば単に「隅」だけでいいはずである。虹人は、「くまで」は「熊手」という意味合いを持っていると考え、熊手は牢屋に嵌め込む檻に似ているところから、大国主命は牢屋に閉じ込められたと考える。(出雲大社参照)

熊野出速雄神社(くまのいずはやおじんじゃ)■竜上127■

皆神山の山頂にある神社。少名毘古那(すくなびこな)の神を祀る。

波の穂をピラミッドと考える山田久延彦氏は、波の穂から常世国に旅立った少彦毘古那の神を祀る熊野出速雄神社が皆神山の山頂にあることを、皆神山がピラミッドである根拠の一つとしている。

熊野権現■竜上31■

地方に勧請された熊野社のこと。熊野社を地方に勧請する場合、本宮、新宮、那智のいずれか一社でも、あるいは三山でも、一様に熊野権現とよばれた。

虹人たちは津軽の十三湖を訪れた後、熊野権現も見物する予定だったが、時間がないために福島城跡と神明宮のみで金木町に戻った。

熊野信仰■竜下279■

和歌山県の熊野山(熊野三山、熊野三所と呼ぶことが多い)を中心とした民俗的信仰。熊野地方は早くから霊地とされ、『日本書紀』の一書には、伊邪那美命を葬った所を熊野の有馬村としている。おそらく、熊野は死者の霊のこもる国として知られていたのであろう。それはやがて聖地と仰がれ、平安時代初期には、熊野坐(くまのにます)神社(のちの本宮)、熊野速玉(はやたま)神社が成立し、十一世紀中ごろから、上記二社のほかに熊野那智神社が加わり、熊野三所権現、熊野三山などと総称されるようになった。那智神社は夫須美(ふすみ)(ムスヒ、ムスビと音が通ずる)大神を主神とし、山岳宗教の拠点として急速に発展した。もともと熊野本宮には狩人による開創の伝承がある。

アラジャホユックの小さな博物館で、東は熊野信仰も鉄と関係があるのかと尋ねる。虹人は、熊野は山岳宗教の代表的なものであり、製鉄にとって一番大事なものは、薪に最適な樹木のたくさんはえている山であると答える。

熊野大社■竜上240・269■

島根県八束郡八雲村熊野、意宇(おう)川の上流の地に鎮座。神祖熊野大神櫛御気野命(かむろぎくまぬのおおかみくしみけぬのみこと)(素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名)を祀る。古くより当地方で出雲大社とならぶ大社で、出雲国造が奉仕した。例祭十月十四日。特殊神事に四月十三日の御櫛祭、十月十五日の鑽火祭(さんかまつり)(きりびまつり、また亀大夫神事ともいう)、十一月十三日の御狩祭など、他にみられぬ神事がある。

熊野大社の祭神が須佐之男命とされたのは、本居宣長が須佐之男命を大国主命の祖先と考えたためで、『出雲国風土記』の注よれば須佐之男命とは別神ではないかと指定されている。虹人は、熊野大社は大国主命が信仰していた出雲で最も古い歴史を誇る神社であると考える。(カンミオヤクマノオオカミクシミケヌノミコト参照)

位山(くらいやま)■竜上119■

岐阜県北部、大野郡久々野(くぐの)町西部にある山。飛騨山脈に属する。久々野町には縄文前・中期の堂之上遺跡がある。また、飛騨一宮の水無(みなし)神社は、位山を神体山とする。

『サンデー毎日』の「大追跡日本のピラミッド」の長期ドキュメント・リポートで取材を受けた山。

クラオカミ■竜上277■

闇淤加美神(くらおかみのかみ)。闇オカミ神。日本神話の神の名。谷の水に関係する神。『記紀』によれば、伊邪那美命(いざなみのみこと)の死の原因になった火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が斬殺したときに、剣の柄に溜まった血が手の指の間から漏れ出て生じたのが、闇淤加美神と闇御津羽神(くらみつはのかみ)とされる。闇淤加美神の「淤加美(おかみ)」は、「オカミ」とも書かれるが、これは龍を意味する古語である。闇は、山の暗くなったところ、すなわち谷を意味する。すなわち、闇淤加美神は、谷の水をつかさどる竜蛇神であり、降雨現象を支配する神である。高オカミ神と同一神であるとの説もある。

船林神社の祭神アハキヘワナサヒコノ命が、同じく大原郡加茂町の貴船神社の主祭神であることから、虹人は、アハキヘワナサヒコノ命が龍神であると説明する。

グランド・アンカラ・ホテル■竜下185■

虹人たちが泊まったアンカラのホテル。モヘンジョ・ダロの戦いから三日後、虹人たちはトルコの首都アンカラに来た。虹人は、国会議事堂を見下ろすグランド・アンカラ・ホテルの六階から、美しい夜景を眺めた。

グリーンベレー■

アメリカ陸軍の特殊任務部隊。少人数で、心理戦や対ゲリラ戦などを行う。隊員が緑色のベレー帽を着用することからこの名がある。

クルス■竜下162■竜下167■

『マハ‐バーラタ』の核戦争らしき描写の部分に書かれた、高速の強力なヴィマーナで飛ぶ雷電をあやつる者。

クレタ■竜下197■

クレタ文明は、前2600年―前1400年ころにクレタ島で栄えた文明で、エーゲ文明の前期を代表する。ミノス文明ともいう。前1600年ころにクノッソス王が島内を統一し、クレタ文明の最盛期を迎える。陶器では旧宮殿時代に多彩流麗な容器を作ったが、新宮殿時代には単彩となり、はなはだ写実的な花や海生動物が好まれた。

信子は、アナトリア古代文明博物館に展示されている土器を、クレタふうと表現した。

黒又山■竜上96・100■

秋田県鹿角市にある、大湯ストーンサークル近くの山。標高280m、三角錐の山で、ピラミッドではないかと言われている。通称クロマンタ。その名の由来はアイヌ語とも黒沢万太とも言うが定かではない。ピラミッド説を学術的に解明すべく、平成四年より数次にわたり調査が行われている。地中探査の調査によると、この黒又山ピラミッドは、自然の山を階段状に整形し、その中腹から山頂まで階段の部分にびっしりと白い石を積み重ねてあり、また内部は、山頂より10m下に石室のある事が確認されている

黒又山解説版には、「人工的に積み上げた山ではないが、人の手で削り取り形を整えて、山霊を仰ぎ多くの人々の信仰を集め、祭儀を行った山とされています。地元の人々は昔から、この山を、クロマンタ山、又はクルマンタ山と呼んでいます。大昔から、この地方は蝦夷地であったので、クルマンタ山も蝦夷語で、解読すると次のようになります。「クル」とは神、又は普通でない人間の事「マクタ」とは野の事(マンタはマクタの転訛と思われる)「キシダ」とは山の事「クルマルタキシダ」すなわち神野山となりこれがクロマンタと呼ばれるようになったの思われます。 黒又山の名は後で付けられたものですが、ともかく古代の遺跡ストーンサークルをはじめとして、多くの神仏が祭られている野原に立つ山、そして深い神秘の中に多くの信仰を集めた山で、ピラミッドと言っても不思議ではありません。今もなお、信仰の深い山神野山であり、すなわち現在の黒又山なのです。」とある。

黒又山を中心に東西南北・夏至や冬至の日の出日の入など、いくつかのライン上に神社などが存在している。東西ラインは出羽神社(根市)―クロマンター愛宕神社(美夜ノ平)。南北ラインは草城神社(草木)―クロマンター黒森神社(黒森山)。夏至ライン駒形神社(折戸)―クロマンター四谷稲荷(四谷)。冬至ライン四角嶽―クロマンター土ヶ久保神社(土ヶ久保)。これはクロマンタだけのことではなく、縄文の遺跡には、単体として山を祭るのではなく、付属設備として祭祀場を設ける習慣があるという。

黒森山■竜上96■

546m。黒又山の北に位置する山。ピラミッドではないかと言われている。

軍人将棋■新下120■

詰将棋を基に創作された将棋遊び。初期は、歩兵・騎兵・工兵・砲兵(大砲)・間者の駒と、少尉から大将(元帥)までの階級・軍旗などの駒で構成されていた。軍旗(大将・元帥)の駒だけを表にして定位置に置くが、他の駒はすべて裏返しにして任意に配列。交互に駒を進め両者の駒が遭遇したとき、裏返しのまま判定者が見て、各駒間の強弱の決めにしたがい勝ち駒を残す。取った駒は再使用できない。敵陣に駒を進め、早く軍旗を奪取した者が勝者となる。大正後期から昭和前期にかけて流行した。

朝廷が北方守護のために信仰していたのは毘沙門天である。朝廷は、龍一族が支配していた蝦夷の国に対する塞の神として毘沙門天を用いた。これは、朝廷が毘沙門天を龍一族の築いたモヘンジョ・ダロの支配者クべーラと知っていたため、敵の神と同一の神を当てたと虹人は考える。そして、たとえ相討ちになったところで、それよりも強い神を出陣させれば簡単だといった虹人の言葉に東は、軍人将棋みたいだなと苦笑した。

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京王線笹塚■新上12■

東のアパートから歩いて十五分の最寄駅。そこから、神田の事務所に通っていた。龍に乗り込み最初に目覚めた東は、必死に考えを現実に向け、次第にいろいろなことを思い出した。

芸者遊び■新下281■

タイムマシンの動力源を運んで来たミトジの村で、東が「今夜は芸者遊びだぜ」と頬を緩めて、純の頭をぽんと叩いた。

契約の櫃■新上89■

古代イスラエル人のシナイ時代から、ダビデ時代の初期に関する旧約聖書中の中で言及されている、運搬可能な木製の長方形の箱。祭儀的伝承によれば、その中に十誡を刻んだ二枚の石板が納められていた。エルサレム神殿では、その上に一対のケルビムが置かれて神の臨在を象徴していた。

シャルケヌの野営の陣で一夜を過ごした虹人たちは、テントの中から、巨大な箱が、三、四十人の兵士に担がれて丘を下るのを目にする。箱は、およそ二メートル四方、高さも一・五メートル、重さは最低でも一トン近くあり、黄金の箔で全体が覆われていた。箱の下には丸い金輪がいくつも取り付けられ、それに担ぐための太い横棒が通されていた。箱の四隅にはケルビムが浮き彫りになっており、鹿角は大きさは違うがあかし証のせいひつ聖櫃=契約の櫃と似ていることを指摘する。(証の聖櫃参照)

ケルビム■竜下86・新上81■

聖書に登場する存在で、「智天使」と訳される。アダムとイブが追放されたのちの楽園を守った。預言者エゼキエルの幻には、人間、獅子、牡牛、鷲の四個の顔と四枚の翼をもち、黄金の眼がしるされた自転する四個の車輪をもった姿で現れた。また、聖櫃の四隅にはケルビムが飾られていたという。

神は、ケルビムと呼ばれる人間に似た天使たちを連れて地球にやってきた。ケルビムは神の乗り物であると同時に、神の従者を意味する言葉である。ケルビムたちは時として容赦ない町の破壊者となり、時として神の福音をつたえる優しい使者の役目を果たした。彼らは、人間とともに暮らし、女とも交わった。シャルケヌのテントの中で、虹人は、目の前にいる連中こそケルビムに相応しいと考える。

ケント■新上28■

煙草の名前。

龍の中から外の世界に繋がる扉の下で、鹿角はどっかりと床に胡座をかいた。微笑を浮かべて隣に座った南波は、無意識に胸のポケットを探り、封を切っていないケントを取り出した。

玄武■新上134■

中国の古代に発祥する四神のうち、北方に位置する神。亀と蛇とがからみ合った形で描かれていて、その背後には冬の季節に世界の復活をもたらす宇宙的な聖婚が行われるという観念が存在したことを窺わせる。

「玄」とは天、または輝きを意味する文字。「武」は、玉に似た石を示す文字でもあることから、玄武は天にある玉、つまりUFOであると虹人は考える。中国の人々が、玄武つまりUFOを動物の姿に置き換える際に、形から亀を想定し、龍一族の乗り物ということで蛇の頭を象徴として付け加えたと推測する。

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甲賀三郎■竜上156・新下97■

諏訪明神の本地を説く、甲賀三郎伝説の主人公。南北朝時代に成立した『神道集』所収の「諏訪縁起の事」によると、近江国(滋賀県)甲賀郡の地頭、甲賀三郎諏方(よりかた)は、最愛の妻春日姫を伊吹山の天狗に奪われ、六六ヶ国の山々を探し歩き、信濃国蓼科(たてしな)山の人穴で春日姫を発見し救出する。しかし三郎は兄の二郎のために穴へ落とされ、七三の人穴と地底の国々を遍歴する。三郎は、最後にたどりついた維縵(ゆいまん)国で歓待されるが、春日姫恋しさに日本へ戻りたいと願い、数々の試練に打ち勝って無事日本の浅間嶽へ出る。やがて三郎は浅間嶽から、本国近江国甲賀郡笹岡にある釈迦堂(岩屋堂)に戻ってくる。ところが自分の姿が蛇になっているのを知り、釈迦堂の縁の下に隠れると、その夜、堂に集まった白山、富士浅間、熊野権現などの化身である十人の僧の口から、蛇身をのがれる法を聞き、もとの甲賀三郎となる。その後春日姫と再会した三郎は、信濃国に諏訪明神として上社に鎮座し、春日姫は下社に祀られるというのがその内容である。地底の国々の遍歴は、通過儀礼と同じものであって、それは八十神たちの迫害を受けた大穴牟遅命(おおなむちのみこと)が、地上から地下の根の国へと難を避け、須佐之男命の課すさまざまな試練に耐えて地上によみがえるまでの神話の構造と重なる。この種の人物に似たものとしては、『富士の人穴』の草子の新田四郎忠綱がいる。

甲賀三郎が諏訪大社の化身であり、妻である春日姫が春日大社に繋がる姫であれば、甲賀三郎伝説は、建御雷(たけみかづち)神を祀る春日大社と諏訪大社が仲間同士になったと言うことになると、虹人は語る。建御雷神は諏訪大社にとっては仇敵のはずであり、この伝説のたった一つの解釈があるとすれば、建御名方(たけみなかた)神とたまよりひめ玉依毘売命との政略結婚であると述べる。

香坂高宗(こうさかたかむね)■竜上192■

信濃国伊那郡大河原(おおかわら)(下伊那郡大鹿村)を本拠地とする香坂氏の武将。1344年(興国五‖康永三)ころ、後醍醐(ごだいご)天皇の皇子・宗良(むねなが)親王が大河原の地にはいり、同地は東国・北陸道方面の南朝方の中心地となって、南北朝内乱は最盛期をむかえた。しかし1355年(正平十‖文和四)桔梗ヶ原(塩尻市)の戦で、宗良親王は捕えられ、香坂高宗は討ち死にして、信濃国の南朝方は再起不能となり、北朝方の支配が決定的となった。

虹人は、龍信仰以外に津軽と長野に奇妙な繋がりがいくつも見られるという。青森県の大川原(おおかわら)という村落には、火流しという祭りがあり、古記録によればその由来は、後醍醐天皇と諏訪の武将香坂高宗の鎮魂が目的ではじめられたものらしい。香坂高宗は諏訪で討ち死にしたが、残党が長野から脱出して津軽に落ち延び、大川原に辿り着いた。なぜ、千キロ以上の道のりを決死の旅を続けたか。それは、津軽が自分たちを温かく迎えてくれるという確信があったからで、諏訪一族にとって津軽は同盟国だったと虹人は推測する。

公衆電話■新下290■

タクシーを呼ぶもの(笑)

荒神■竜上268・新下274■

たたりやすい神のこと。荒神は、以下の三つに大別される。(1)宝荒神…屋内の火所にまつられ、竈神、火の神、火伏せの神の性格をもつ。東日本では、火の神としての荒神と作神としてのオカマサマを屋内に併に祀つる形が多い。(2)地荒神…屋外にまつられ、屋敷神、同族神、部落神の性格をもつ。西日本ではこのタイプが顕著であり、集落単位でまつる荒神はウブスナ荒神と呼ばれ、作神ひいては生活全般の守護神のように考えられている。中国地方では、荒神森という場所の大樹や、その下の塚を祀り、藁縄を蛇体のようの巻いたものを供える。(3)牛馬の守護神としての荒神。このタイプは鳥取、島根、岡山県などに濃厚で、その信仰的中心は伯耆大山であったらしい。最近まで陰陽師、山伏などが「荒神祓い」と称して、各戸の三宝荒神や土地の神を清めて回る風があった。荒神という呼称を流行させ、また複雑な荒神信仰を解説し宣伝して回ったのは、これらの民間宗教家たちであろう。

地方によっては、荒神を須佐之男命と同一化するところがある。

虹人は、荒神つまり須佐之男命を祀る鬼神神社が、船通山の麓の鳥上にあることを知る。UFOと繋がりそうな玉子神社、麓に残された龍駒の地名、須佐之男命を祀る鬼神神社、そして、手名椎・足名椎神社から、虹人は、鳥神山が須佐之男命の最初の着陸地だろうと推測する。

龍に乗り運ばれた4000年前のシュメールで、虹人は、牡牛の神の指導者の一人・ブトー=須佐之男命と会い、和平交渉を行なう。ブトーは和平の使者になることを承知したが、虹人が未来を知っているように、自分も虹人の未来を左右したいと言う。剣を握りブトーと相対した虹人は雑念が消え、互角以上の勝負をする。ブトーは和平を進言することを約束し、「遠き未来にコージンと名乗った私を知ることがあれば、それが約束を果たした印だ」という。虹人は「もう・・・・・・約束は果たされたよ」と答える。

鮫人■竜下151■

中国では、体が魚で頭が人間、つまり人魚のこと鮫人という。鮫人は人語を解し、人間をはるかに超える知恵を有し、未来予言にも長じている神である。後世になって、鮫人は虹人とも表記された。

虹人の名づけ親は宗像剛蔵である。虹は鮫と同義文字であるので、虹人の名前は鮫人からきている。虹の甲骨文字は、両方に頭のある蛇が空に弧を描いている形から出来上がっており、虹が巨大な蛇ならそれは龍に直結する。虹は蛟で鮫でもあるので、鮫人は龍神となる。宗像姓のルーツである宗像神社は龍神と密接な繋がりがあり、宗像は虹人が龍に興味を持ってくれるように願って命名したと告白した。

荒神谷■竜下274■

島根県簸川郡斐川町神庭にある弥生時代の青銅器埋没遺跡。1984―85年の調査で、谷の急斜面から中細形銅剣358本、銅鐸6口、銅矛16本がまとまって出土した。三種の青銅器が一括埋葬された遺跡の最初の発掘例。また、銅鐸が近畿、銅矛、銅剣が九州地方を中心に分布すると言う従来の学説を覆した。

日本の製鉄の歴史は古く、石川県では紀元前六世紀の溶鉱炉が発掘されており、福井県にもおなじ時代に属する製鉄場跡が二ヶ所も確認されている。虹人は、どちらも出雲に接近した場所であり、その時代に鳥髪山で製鉄が行なわれていたと考えても飛躍した話ではないと言う。荒神谷で発掘された銅剣は一世紀から二世紀前半と言われており、出雲の近辺では鉄のほうが青銅器より500年以上も早かったことになるのかという信子の疑問に、鉄があったとしても、銅のほうが一般的であればそれは銅の時代と言われると、虹人は答える。

広目天■竜下173■

四天王天の四方に住んで仏法を守護する四天王の一神で、西方に位置する。毘楼博叉(びるばくしゃ)とも言う。

ガラスの町から歩いて帰る道で、虹人はモヘンジョ・ダロの支配者、クベーラが仏教に導入されて四天王の多聞天となったと語る。そして、四神それぞれの名を挙げて四天王を説明する。

後三年の役■竜上211■

1083年(永保三)から87年(寛治一)まで、陸奥守源義家と清原一族の間で戦われた乱。清原氏は前九年の役のあと、安倍氏の旧領をあわせて奥羽最大の勢力になった。しかし、清原武貞の三人の子は、嫡子の真衡が先妻の子、家衡が後妻安倍氏(安倍頼時の娘、藤原経清の後家)との間の子、清衡がその後妻の連れ子という複雑な関係にあった。1083年、清原一族の吉彦(きみこ)秀武が真衡と争い、家衡・清衡を誘って真衡の留守を攻めたが、このときは真衡の求めによって源義家が介入し、家衡らはこれに従った。その後真衡が出羽国で病死し、義家はその遺領の奥六郡を家衡と清衡に二分して与えた。しかし今度は家衡と清衡が対立し、家衡は清衡の宿所を焼き払い妻子眷属を殺害した。ここにおいて清衡は義家に援を請い、戦いは義家・清衡対家衡に発展した。1087年11月義家らはようやく金沢柵をおとし勝利を収めた。清衡は乱後、父の姓の藤原に復し、安倍・清原の遺領を継承して、奥州藤原氏四代の繁栄の基礎を築いた。

宗像剛蔵は、東北は常に侵略の歴史だと言う。問題なのは、「役」という用例で、これはもともと外敵との戦に使う言葉で、国家の内部抗争では「乱」あるいは「変」の文字を使用する。東北侵略戦争以外に、「役」の文字が使われているのは一つとしてないと語る。

高志(こし)の国■竜上126■

古代の広域地名。高志、古志、古之とも書く。本州の日本海沿岸域北半、敦賀湾から津軽半島までを包括する。『日本書紀』の国生み神話の多くは、本州を意味する「大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)」とは別に「越洲(こしのしま)」を掲げており、かなり遅くまで畿内の王権とのつながりの薄い独立性の強い地域であったと考えられるが、507年には継体天皇を畿内に送り出したと伝承される。

『記紀』によれば、ヤマタノオロチは高志の国から出雲にやって来ていたとされる。高志の国が越の国、すなわち新潟県であることは大方の研究者が認めているが、今の新潟と出雲は離れすぎており、なぜそのような場所からヤマタノオロチが襲ってくるか疑問がもたれている。虹人は、『真説・古事記』の仮説である「出雲東海説」を紹介し、長野が出雲であれば。その疑問は簡単に解決すると述べる。

牛頭(ごず)天王■竜下58■

京都祇園社(八坂神社)の祭神。本来は祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神とされるが、日本では行疫神として流布している。『備後国風土記』は蘇民将来(そみんしょうらい)の説話を伝えるが、その中で、牛頭天王を武塔神と呼び、牛頭天王自身が、吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なりと名乗っている。『日本書紀』の一書には、素戔鳴尊が高天原を追放されて、朝鮮半島の牛頭という土地に住んだという記載があり、これが、素戔鳴尊が牛頭天王になったという縁起といわれる。また、京都の八坂神社の社伝には、「斉明天王二年(656)新羅の牛頭山から素戔鳴尊の神霊を迎えて祀った」とある。

虹人は、中国にも牛頭天王と呼ばれる神がいて、日本にも移入され、たいていは須佐之男命と合祀されているという。そしてスサノオ伝説は牡牛伝説でもあると語る。

後醍醐天皇■竜上192■

1288-1339 第九六代に数えられる天皇。在位1318―39年。後宇多天皇の第二皇子。諱(いみな)は尊治(たかはる)。1318年に即位して、1321年(元亨一)親政開始。生前に自らの諡号(しごう)を「後醍醐」と決めたように、延喜・天暦の治がそのよりどころだったが、後醍醐の政策は単なる復古ではなく、むしろ宋の君主独裁政治を目ざしたものとみられている。1324年(正中一)討幕計画(正中の変)の失敗後、後醍醐は、南都北嶺に皇子を入れ、みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに、関所停止令を発して商工民をひきつけ、悪党を組織して討幕に向かう。しかし、再度の討幕計画の企ても、天皇の身の安泰を憂慮した重臣吉田定房の通報するところとなり、1331年(元弘一)後醍醐は笠置で挙兵したが捕らわれて隠岐に流された(元弘の乱)。その後、護良親王、楠木正成の軍事行動に呼応して1333年隠岐を脱出。足利高(尊)氏らの内応を得てついに幕府を滅ぼし、建武新政を開始した。しかし、その政治は著しく専制的で、武将・貴族たちの強い反発を招き、新政は1336年(延元一‖建武三)には瓦解する。後醍醐はなおも吉野に南朝をひらき、北朝を奉ずる足利氏の幕府に対抗するが、相次ぐ南軍の敗報のなかで三九年吉野で死んだ。

青森県の大川原と言う村落に伝わる火流しという祭りは、後醍醐天皇と諏訪の武将・香坂高宗の鎮魂が目的ではじめられたという。このことから、虹人は諏訪一族と津軽との関係を解く。(大川原香坂高宗参照)

コタン■竜上285・新下255■

蘇民将来伝説にでてくる名前。メソポタミアにあった都市の名前であるという研究者もいる。武塔神=須佐之男命によって、滅ぼされる。(蘇民将来伝説参照)

別天(ことあま)つ神■新下78■

『古事記』において八百万神に先駆け、高天原に現われた五柱の神を別天津神と呼ぶ。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)、宇摩志阿訶斯備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)の五神である。

虹人は、別天つ神を天の創造主ととらえている。天之御中主神は、宇宙の中心に存在する宇宙の種であり、ビッグバン以前の存在である。次に登場する高御産巣日神と神産巣日神の二神は、爆発した宇宙を膨大なエネルギーの渦に纏めた。そして宇摩志阿訶斯備比古遅神は、その渦から生まれた星と解釈する。最後にこれらを総称する天之常立神という概念が作られたとする。天之常立神は天之御中主神と同神であると古来から言われていることから、天之御中主神に高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿訶斯備比古遅神の三神を加えたものを別天つ神ととらえ、宇宙を意味する四人の神と考えている。これは、ムーにおいて宇宙の根源を四と見傲していたことと一致している。また、チャーチワードは、ギリシア・クロスをムー帝国の紋章であると主張しており、虹人は、日本ではギリシァ・クロスのように図形としては残されなかったが、典型的なクロス=結びが伝えられていると言う。高御産巣日神と神産巣日神、いわゆる結びの二神が、宇宙に存在する火と水とを結び付けて渦と成したことから、日本には日常の中に宇宙の生成に関わる十字への信仰が残されていると言う。(結び参照)

事代主命(ことしろぬしのみこと)■竜下283■

日本神話にみえる神の名。コトは「言」、シロは「知る」意で、託宣の神。八重(やえ)事代主神とも呼ばれる。記紀神話においては大国主神(おおくにぬしのかみ)の子として国譲りの誓約を行い、自分の乗ってきた船を踏み傾けて、天の逆手を打って青葉の柴垣に変えて隠れてしまった。美保神社の青柴垣神事は(四月七日)この話に由来する。『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)』によれば、その後事代主神は大和の宇奈提(うなで)に「皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神」として祭られた。『日本書紀』には、この神が八尋(やひろ)ワニとなって三嶋ミゾクイ姫と結婚し神武天皇の后となる姫を生んだという三輪山(みわやま)伝説が伝えられており、また、神武天皇以下、綏靖・安寧天皇の妃が事代主命の子や孫とされている。しかしこのような天皇系譜との強い結びつきは、『古事記』にはみられない。この神は、その後も天皇家と関わり、神功皇后の神祭りの場面における神託や、壬申の乱に際して天武天皇を守護する託宣などがみられる。事代主神は、『記紀』では出雲と結びつけて語られるが、『出雲国風土記』にその名が見えないこと、『延喜式』に「高市御県坐鴨事代主神社」「鴨都波八重事代主神社」が見られることから、葛城地方との関連も含めて、その出自には不明な点が多い。

夷の正体が、一般的には事代主神と言われている。事代主神は大国主命の子であるので、夷と大黒はワンセットで扱われることが多い。虹人は、イザナギ、イザナミの子である夷の正体が、大国主命の子・事代主神とされるのは、夷が高天原から追放された神であるからであると推測する。夷は、地上に降りて人間に知恵を与えた。彼らは、龍と呼ばれ、文化の指導者となったが、天上の神たちは龍を許さず、彼らは悪魔とそしられ、夜叉と嫌われ、夷と罵倒されたと虹人はいう。

粉っぽいコーヒー■竜上25■

虹人が車力村の食堂で飲んだコーヒー。

コブ牛■竜下126■

インド原産で、ヒンドゥー信者たちの崇拝を受けている聖牛。

イギリスの考古学者カニンガムは、ハラッパーを発掘し、表面に牡牛が刻まれた印章を発見するが、牡牛がコブ牛ではなく、上部に刻まれた六文字の名文がインドの文字でないことから、その印章を外来のものと判断してしまう。虹人は、その印章には、星と並んで龍の原型と思われる蛇が刻まれていたという。モヘンジョ・ダロは、メソポタミアから脱出した龍の一族が建設した文明であり、蛇があるのは当然であると語る。

古墳時代■新下46■

弥生時代に継続する時代。古墳と総称する墳墓を作った期間のことで、四世紀から六世紀にあたる。

迷ヶ平に着陸したイシュタルの円盤のレンズ映った男が、自分たちとそれほど変わらない髪や服装をし、金属の刀を持っていたことから、東が、古墳時代のようだと言う。虹人は、日本が古墳時代なら、シュメールもバビロニアも滅びているので、縄文時代に間違いない語る。さらに虹人は、縄文人たちは、立派な家を持ち、神を信仰し、豊かな文化を築いていたと言う。

独楽(こま)■新下137■

軸を中心に回転させる玩具で、ほぼ世界中に分布している。

虹人は、独楽とは、何の支えもなく独りでがく楽を舞っているから「独楽」と書くと説明する。しかし、「独」を「こ」と読み、「楽」を「ま」と読む用例はない。コマとは「高麗(こま)」からきた玩具だったため、「高麗」が語源となっているが、漢字に表記する際に、意味がはっきと伝わる「独楽」を当て嵌めた。虹人は、独楽を例にして、黄泉の国についての独自の解釈を展開する。

コーラン■新上280■

アラビア語で書かれたイスラムの根本聖典。コーランは神の言葉であり、神とともに永遠であると考えられている。神に服従・帰依することは、具体的にはコーランの言葉に従うことである。つまり、コーランは人間の正邪・善悪に関する判断の究極的基準として、思考や行動を規制するものである。その内容は、神観念、とくにその唯一性、天地創造、アダムの創造と楽園追放、人類の歴史とそれに対する神の支配、終末、死者の復活と審判、天国と地獄、預言者などであり、さらに儀礼的規範、および道徳や礼儀作法、法的規範をも含んでいる。

虹人は、メソポタミアやインドヒッタイト、そして『旧約聖書』などの古い神話では、神が地上に出現して人間と直接コンタクトを取っているケースが多いのに、『新約聖書』や『コーラン』のように紀元後のものになると神は常に天上にいて命を下すようになるという。『古事記』や『日本書紀』でも、神はほとんど高天原に戻っており、地球が彼らにとって定住に適さない環境になったとしか思えないと語る。その原因は長い戦争よる放射能汚染であり、龍の神たちは、深い海の底に潜って汚染から身を守った。反対に牡牛の神たちは空に上がって汚染が消滅するのを待った、それが高天原、月のことだろうと推測する。

権現沼■竜上24■

青森の十三湖近くの沼。

義経伝説の偽装取材旅行で訪れた車力村で、村役場の男が権現沼を前に、昔は海と繋がっており安東水軍もここでよく軍事訓練をしたらしいと話をした。

金精様(こんせいさま)■新下110・121■

男根を神体とする神。男根や女陰に特別な霊力のこもることを認めて崇拝する性器崇拝の一つで、男根像に子宝や良縁を祈る。

虹人は、道祖神が性神と勘違いされたために、金精様と呼ばれて貶められてしまったと語る。

さらに虹人は、道祖神から発展した金精様を淡島明神といい、淡島明神が祀っているのは少彦名神であることから、道祖神が少彦名神であることを指摘する。(道祖神参照)

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