【シュメール】
シュメールの神話では、天の父神アン(バビロニアではエア)と地の母神キがいて、二人から風・嵐の神エンリルが生まれたとされる。
エンリルから、月神ナンナルと太陽神ウトゥが生まれ、月神ナンナルから金星の愛の女神イナンナ(アッカドではイシュタル)が生まれた。
シュメールでは、龍に関した神話は語られない。
しかし、円筒印章に龍と思われる図像が認められており、龍の歴史も「シュメールに始まる」と考えられている。
シュメール語で龍のことをウシュムガルと言う。
ウシュムは「唯一の」、ガルは「偉大な」という意味であるが、ウシュムガルは同時に「独裁者」をも表し、権力と結びついている。
一方、王を現わす「ルガル」のルは「人」、ガルは同じく「偉大な」である。
王とは別の存在の「唯一の偉大な龍」が独裁統治していたことを表わしているようで非常に興味深い。
【バビロニア】
バビロニアの天地創造物語である『エヌマ・エリシュ』は、バビロンの主神マルドゥクのエサギラ神殿で、新年祭の祭儀文として奉納された。
「上では天がまだ名づけられなかったとき……」で始まり、最初のエヌマ(とき)とエリシュ(上では)の二語をとってこう呼ばれる。
原存在のアプスー(深淵の淡水)と龍の姿をとる女神ティアマト(海の塩水)が混合し、そこから神々が生まれたが、陽気な若い神々の騒がしさが原因で、神々が二分して戦うことになってしまう。
旧世代の神であるティアマトは、七俣の大蛇や毒蛇、サソリの尾をした龍などの怪物を作り出し、息子キングを司令官とした。
一方新世代の神々は、エア(シュメールのアンに相当)の子のマルドゥクを将とした。
闘いはマルドゥクの勝利に終わる。
マルドゥクは弓矢と三叉戟をとってティアマトを討ち、その遺体を二分して天地を創った。
彼はキングから主神権の象徴である「天命のタブレット」を奪って最高神アヌに進呈し、キングを処刑した。
さらにキングの血で人間を創り、神々の賦役を肩代りさせた。
神々はマルドゥクのためにバビロンを造営し、マルドゥクを賛美する。
マルドゥクの名については「太陽神ウトゥの子牛」の意ともされ、牡牛と考えられている。
マルドゥクが授けられた武器は嵐と雷で、インドラやポセイドンと同様に、稲妻の象徴である三叉戟を持つ。
『エヌマ・エリシュ』は主神権の交代を表わしている。
この神話が新年祭の王権更新の儀式で詠唱されるということは、ティアマト=龍が、王権=牡牛に対立する旧勢力を意味するものであり、天地創造に際して、龍は退治されるべき「悪」とされるのだ。
シュメールやバビロニアが栄えたメソポタミアこそ、善悪に二分される龍の起源であり、龍対牡牛の最初の戦いの場である。
また、「天命のタブレット」とは何であるのか、『柩』的に考えてみるのも楽しい。
主神権の象徴というと、母船である月の操縦に関するものでもあろうか?
【エジプト】
エジプト神話では直接龍が語られることはないが、有名なオシリスの復活の話を探ると、ここにも牡牛と龍の対立が描かれていることがわかる。
大地の神ゲブと天の女神ヌートの子であるオシリスは、エジプト王として善政を施くが、弟である邪神セトに妬まれて殺され、ばらばらにされて投げ捨てられる。
しかし妹で妻であるイシスの手で身体をつなぎ合わされ、ミイラとなって復活する。
長子ホルスをエジプト王とし、オシリスは永生を得て冥界の王となる。
邪神セトは、龍であるとは言われていない。
しかし、
以上のことより、セトを龍と考えることも可能であろう。
セトのレリーフは「鳥のような長いくちばし、ピンと立った四角い耳の、ロバに似た不詳の動物の頭をもつ」と表現されるが、耳ではなく角に見え、モヘンジョ・ダロ出土の印章と同じものではないだろうか。
一方イシスは牡牛の頭、牡牛の角をつけて表現され、三日月を持つこともある。
地母神であり月の女神であるという関係は、バビロニアのイシュタル、フェニキアのアスタルテ、ギリシアのイオと同じで、これらの女神はすべて牡牛と密接な関わりを持っている。
【ヒッタイト】
ヒッタイトには『龍神イルルヤンカシュの神話』という神話がある。
嵐神プルリヤシュと龍神イルルヤンカシュが戦い、龍神が勝利した。
嵐神は、風と空気の女神イナラシュの知恵を借り、いろいろな種類の酒を甕に入れて準備した。
フパシャシュという人間を仲間に引き入れ、小屋の陰に隠し、イナラシュが儀式を始めると龍神が酒の匂いに惹かれて近づいてきた。
女神は手招きして龍神とその一族に食べ物や飲み物を勧め、酔いが回って動けなくなった龍神をフパシャシュが縛り上げ、嵐神が斬り殺した。
小アジアで誕生したこの悪龍を退治する物語が、鉄器とともに、インド・中国を経て日本に入り、「八俣大蛇」の神話を生んだと、一般的には言われている。
【カナン】
シリアの地中海岸にあったウガリトから前14〜前13世紀の粘土板文書が出土し、この文書によってバアル神話が明らかになった。
この神話の重要性は、ヤハウェ信仰と多くの点で類似性を示す一方、他の面では、真っ向から対立する異質の神々が登場する点にある。
バアルとはセム語で「主」を意味する。
バアルは豊穣の神で、しばしば「雲に乗る者」、あるいは稲妻と雷雨の神ハダド(アダド)とも呼ばれている。
父の名はエールで、大洋に君臨する最高神。母はアシュタロテ。兄弟は、洪水の神で七頭の龍の姿をとるヤムと、火の空で大地を乾燥させる死神モトである。
バアルはこの二人の兄弟と王権をかけて争う。
ヤムは父エールに強請して卑劣な策謀をめぐらす。
ヤムの脅しに屈しようとする、老いて力の衰えた最高神エールを尻目に、バアルは一人ヤムに立ち向かい、三叉の槍でヤムの頭を打ち砕き息の根を止める。
次にバアルはモトと闘うが、モトに敗れて、バアルの姿が地上から消えると、大地は荒廃してしまった。
妹神アナトはバアルの復讐のためにモトに戦いを挑み、モトの体をずたずたに切り刻み、石臼でひいて野に捨てる。
モトが死ぬとバアルが再び蘇り、バアルは牡牛となってアナトと交わる。
バアル神話に見られる死と再生のドラマの背後には、季節の交替のドラマがある。
アナトに宿る生命は、大地の豊穣の確証なのである。
女神との性的交渉が豊穣を保証するという観念は、農民に最も親しまれ、この宗教感覚は農耕生活に入ったイスラエルの農民にも浸透して、ヤハウェの契約の精神を蝕んだので、激しく批判された。
イスラエル人はバアルを軽蔑してバアル・ゼブブと呼び、新約聖書ではベルゼブルと記されて悪魔の呼称の一つとなっている。
【旧約聖書の龍】
『旧約聖書』ではレヴィアタン(リヴァイアサン)という龍が世界の秩序の創造に際して退治される。
「詩篇」第七四章には「あなたはみ力をもって海を分かち、水の上の龍の頭を砕かれた。
あなたはレヴィアタンの頭を砕き、これを野の獣に与えて餌食とされた」とある。
この龍は「詩篇」以外にも「イザヤ書」や「ヨブ記」にも登場し、デーモンの一種とされる。
レヴィアタンは多頭の龍であり、ティアマトの作り出した龍は七頭、バアル神話のヤムも七頭である。このためバビロニア神話やウガリト神話が、「詩篇」の原型であると言われている。
一方、宇宙創造を語る「創世記」には龍が登場しない。
内容は『エヌマ・エリシュ』との明らかな類似があるにも関わらず、擬人的な表現が排されているため、龍について語らないのである。
「創世記」では、原初の世界には、上に「闇」がある「淵」と、「神の霊」がおおう「水」が存在するだけとされる。
しかし、「淵」を表わす「テホーム」という言葉は、『エヌマ・エリシュ』に登場する龍「ティアマト」と語源的に関係があると指摘されており、「創世記」にも見えない所に龍が潜んでいると言える。
【新約聖書の赤い龍】
「ヨハネの黙示録」の龍は、七頭と十本の角を持ち、七つの冠がある赤い龍である。
尾の一振りで全天の三分の一の星を掃き払う力を有し、キリスト教徒を苦しめるが、大天使ミカエルとの戦いに敗れ、キリストの再臨まで千年間を地下に封印される。
千年後、悪龍は解き放たれるが、結局火と硫黄の池に投げ込まれる。
キリストの最終的な勝利であり、神の国の実現である。
【ルシファー】
ルシファーは『旧約聖書』「イザヤ書」に出てくる墜落天使(反逆天使、堕天使)で、もとは天使であり、全天使の首領でもあったが、あるとき神と敵対し、天上を追われたとされる。
この墜落が、新約聖書のミカエルと龍(サタン)との闘いと同一視されることもあることや、ルシファーは天上から追い落とされると蛇や龍の姿で表されることから、ルシファーも龍であると言える。
ルシファーは天上にいるときは、大天使あるいはセラピムの姿をとる。
ケルビムとセラピムは、人間の姿をとる他の天使とは異なる。
ケルビムは人間、獅子、牡牛、鷲の四個の顔と四枚の翼を持ち、黄金の眼がしるされた自転する四個の車輪を持った姿でエゼキエルの前に現れた。
一方、イザヤが見たセラピムは、六枚の翼をもち、そのうちの二枚で顔を、二枚で足をおおい、残りの二枚で飛びつつ神の玉座を守護するものであった。
この二天使は、稲妻のような閃光を発して飛び、古代バビロニアの雷と関係があるという。
また、ルシファーとは明けの明星の意で、金星の女神であるイシュタルとも結びつくのが面白い。
【ゲオルギウス】
ゲオルギウスは、三〜四世紀ごろのカッパドキアの伝説的聖人である。
馬で東方のリュディアを旅行中、その地の王女が悪龍への犠牲に選ばれ水辺につながれているのを発見し、馬上より槍と剣で龍を倒し王女を救ったという伝説がある。
キリスト教徒にとって龍は異教を、王女はキリスト教会を意味し、彼は悪に打ち勝つ正義の象徴と考えられた。
このように、キリスト教伝説に取り入れられた龍は、荒ぶる者、邪悪なる者の象徴であり、龍はサタンとも同一視された。
中世の宗教画に頻出する地獄の口も、大口をあけて罪人の魂を飲みこむ龍の姿になっている例が多い。
【ギリシア】
西洋では龍をドラゴンと呼ぶが、これは蛇を意味するギリシア語に由来する。
しかもこのギリシア語は「睨みつける」という語と近縁とされ、蛇の凝視行動との関連が指摘される。
ギリシャ神話には、龍と牡牛と月に関連する話がある。
テーバイ伝説である。
姉妹のエウロペが牡牛に化したゼウスに誘拐されてしまったので、フェニキアの王子・カドモスは父王によりエウロペの探索に出された。
しかし探し出すことができず、帰国を断念したカドモスは、「牝牛に従い、その伏した所に都市を建てるべし」とのデルフォイの神託を受けた。
カドモスが「月の徴のある牡牛」を連れて、後にテーバイとなる地に至ると、牡牛が横になった。
そこでカドモスは牡牛をアテナに捧げようとし、そのために必要な水を汲ませに従者をアレスの泉にやると、泉の番をしていた龍に殺されてしまう。
怒ったカドモスは、石で龍を叩き殺して復讐する。
そして女神アテナの命に従い龍の歯を播くと地中から戦士たち(スパルトイ、「播かれた者」の意)が出現し、テーバイの貴族の祖先となったという。
テーバイからは近年バビロニアの円筒印章が出土し、東方との交流のあったことを裏づけている。
カドモスにはもう一つの龍と牡牛にまつわる話がある。
エジプトの邪神セトと同一視されるテュポーンは、百の蛇の頭と火を放つ目をもち、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形の龍である。
ゼウスがテュポーンと格闘した際に、テュポーンに鎌を奪われ、それによって手足の腱を切り取られてしまう。
テュポーンは腱を洞窟に隠しておいたのだが、カドモスは牛飼いに変身し、牧笛で龍に魔法をかけて腱を盗み出しゼウスに返した。
またカドモスに神託を与えたデルフォイにも龍伝説がある。
デルフォイは初め大地の女神ガイアの聖地で、ピュトンと呼ばれる大蛇に守られていたが、アポロンがこれを射殺して神託所を開いたといわれる。
この神話から、ギリシアの先住民の神々と龍との関係が示唆される。
アポロンが侵入するまで、ガイアの聖地は龍に守られており、ゼウスと闘った龍テュポーンはゼウスの妻の子でもあった。
また、アテナには蛇を産んだとか養育したという伝承が残されている。
これを裏付けるように、ミノア時代のクレタ島から、蛇を巻きつける女神などの塑像が出土し、蛇の信仰をうかがわせる。
荒川紘氏によれば、ギリシア半島には、蛇を守護神として崇拝していた人々がおり、そこに、前2000年ごろからゼウスを信仰するギリシア人が侵入し、先住民に崇拝されていた蛇は敵役を担わされた。
一方で、南のオリエントからは龍退治の神話が伝播、土着の蛇と外来の龍とが混淆したドラコーンが生まれた、という。
ギリシアのドラコーンが多頭の形態をとるのはメソポタミアの龍の影響であり、宝の守護神的な性格は、土着の蛇の血を受け継いでいるからであると推論している。
★宝物と竜★
多くの伝承において、龍は地中、洞窟、水中などに潜み、そこに隠された宝物を護る。
ジブラルタルの西の果ての楽園で、龍ラドンは眠らずに黄金のリンゴを守っていた。
ヘラクレスはラドンを弓で射貫き、黄金のリンゴを持ち帰る。
アルゴノーツで有名なイアソンも龍に関係する。
黄金の羊皮をとってくるという難題を与えられたイアソンは、ペレウス、テセウス、ヘラクレスなどの英雄を集めてアルゴ船でコルキスに向かった。
コルキス王アイエテスに金羊毛を求めると、王は二つの難題を出した。
青銅の足を持ち口から火を吐く牡牛を軛につけ、アレス神の聖地を耕すこと。
そこに王の与える龍の歯を播き、生まれ出る武装の勇士たちを討ち果たすことであった。
二つとも、イアソンに恋した王女メデイアの魔法の薬と助言とでなし終えたが、王は金羊毛を渡そうとしないので、これを守る百目の龍をやはりメデイアの助力で眠らせ、やっと手に入れることができた。
このように龍を仕留める力をもつことが英雄に欠かせない資質であった。
また、これらの伝説の「月の徴のある牡牛」や「青銅の足を持ち口から火を吐く牡牛」というのも、龍対牡牛の仮説を導入すれば、月の指令を受けたUFOというイメージが湧き、非常に面白い。
【北欧】
ゲルマンの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に登場する英雄ジークフリートも龍を殺す。
ジークフリートはかつて龍を退治した際にその返り血を浴びて全身が角質となり、不死身となったが、実は彼の背中には一枚の木の葉のために血を浴びなかった所があり、そこが弱点となって後にブルグント王グンテルの重臣ハーゲンに刺し殺されることになる。
この叙事詩は古北欧伝説から題材をとっている。
悪龍ファフニールはシグルズ(またはジクルト。ジークフリートとはジクルトのドイツ語読み)の父を殺して宝を手に入れそれを守っていた。
シグルズはゲルマンの主神オーディンの馬スレイブニルの血を引く名馬を手に入れ、父の形見の剣の破片から剣をつくらせ、龍を退治して宝を奪う。
宝を守るファフニールはリンゴや羊皮を守るギリシア神話の龍と同じ系統のもので、英雄による龍殺しというテーマも同じである。
北欧神話には他にも様々な龍が登場する。
世界樹ユグドラシルの根元の闇の世界には、悪龍ニドヘグがいて、その根を齧り、世界を滅ぼそうとしている。
また神々の地アスガルドと人間の世界ミッドガルドを渡って虹の橋がかかっている。
この虹もドラゴンとみられ、虹を龍とする中国の神話と共通する。
さらに雷神トールは、ラグナロック(神々の黄昏)という終末のときに、悪魔の蛇ヨルムンガルドと戦い、相打ちになって命を落とす。
このトールはギリシアのゼウスやインド神話のインドラと同一視されている。
★龍殺しのテーマ★
強大で地中の秘密ないし生産力を独占する龍は、権力や豊穣の象徴であり、授精力をもつ地霊の性格をあらわす。
その超自然的な力は畏敬の対象であり、この荒ぶる神としての地霊を殺害し、大地の秘密や恵みを人類に解放する英雄は、西洋各地の建国伝説などに繰り返し登場する。
英雄がこれを殺害するという寓意によって、土着神の併呑、自然から文明への移行、ないしは人間による混沌とした自然の諸力の征服と統御が示されるのである。
これについてユング心理学では、混沌の象徴である龍が殺されて秩序が生じる過程を、人間の意識の発展と解釈する。
龍はいずれも無意識・混沌を示す円環的時間(進歩のない歴史)の隠喩であり、ギリシアでは自らの尾を噛む龍ウロボロスで表された。
この永続が破れ、進歩へ向かう歴史(直進的時間)が開始される経緯を表したのが龍殺しのテーマでもある。
そして殺害された地霊を押さえる目的で置かれる石は、しばしば「世界の臍」(中心)と呼ばれ、デルフォイにはピュトンを押さえつけているという石オンファロス(臍の意)がある。
これは常陸鹿島神宮の要石や日本中央の碑を連想させる。
鹿島神宮の要石は地震を起こす鯰を押さえているという俗信で有名であるが、鯰とされたのは江戸中期以降で、それ以前に要石が押さえていたのは、大蛇であった。鹿島の地霊も大蛇であったということになる。
また、日本中央の碑も、征服したという記念的なものではなく、蝦夷の地霊を押さえる目的で置かれたものではないだろうか。
【インド】
≪先住民族と龍≫
ヴェーダ神話では、アーリア人に敵対する先住民族が、ヴリトラ(障碍物)=悪龍アヒと見られている。
それを退治するインドラが英雄としてたたえられるという点で、ギリシア神話と同じである。
しかし、その後、ナーガ一族のシャカによる仏教の成立や、土着の宗教を受け入れたヒンドゥー教の勃興によって、インドでの龍は善悪様々に語られるようになる。
≪龍と水≫
悪龍アヒは水を司り、「アヒを殺して七つの大河を説きはなった」という章句がみられるように、世界の水を体に集めている。
降雨を期待して人々が信仰するのは、この龍ではなく、龍を退治する側のインドラである。
これは、バビロニアと同様であり、中国や日本とは逆である。
中国では、旱魃の時も黄河の洪水の時も、龍である河伯に祈る。
龍が水と関係があるのは東西同じだが、龍が神である土地では、慈雨を龍に祈り、龍が悪である地域では、龍を退治する神に慈雨を祈るのである。
同じ神でも、龍と牡牛の違いを見ることができる。
≪先住民族ダーサ≫
『竜の柩』下巻51ページに引用されている『インドラの歌』にあるように、インドに進入したアーリヤ人は、敵対した先住民を区別して、「ダーサ」あるいは「ダスユ」と呼んだ。
『リグ・ヴェーダ』によると、「ダーサ」は皮膚の色が黒く鼻が低く、奇妙なことばを話し、異なった宗教を信奉し、男根崇拝など奇妙な風習をもっており、プル(町)に住んでいたという。
このプルをインダス文明の都市、ダーサをその都市の住民とみる史家もいる。
男根崇拝が先住民族の風習として記されているが、ヒンドゥ教が土着の信仰や習俗を取り入れていった過程で、男根崇拝もシヴァ信仰に取り込まれたものであろうか。
≪ドラヴィダ 〜インダス文明の担い手≫
考古学、言語学の最近の研究成果によって、インダス文字がドラヴィダ系言語であることはほぼ確定し、また、インダス文明の担い手もドラヴィダ民族ではないかと推論されている。
インド・アーリア民族最古の文献といわれる『リグ・ヴェーダ』にはドラヴィダ諸語からの借用が多くみられ、前八世紀以前にインド・アーリア文化に対するドラヴィダ文化の影響があったと考えられる。
≪ドラヴィダ人の起源≫
ドラヴィダ人は、現在南インドを中心に居住し、タミル語、カンナダ語、テルグ語、マラヤーラム語などのドラヴィダ語族の言語を話す。
その人口はインド総人口の約25%を占めている。
この民族の起源、インドへの移動時期・経路、また他民族との親縁関係については不明な点が多い。
今日の南インドには、形質人類学上、地中海型の特質をもつものが多いことなどから、地中海地方にドラヴィダ人の人種的な淵源を求める説もある。
ソ連、チェコスロバキアなどの言語学者の研究によれば、前3500年ころにイラン高原からインド西北部に移動したドラヴィダ民族は、やがて三派に分岐し、そのうちの一派が南インドに移住したと考えられる。
一方、フューラー・ハイメンドルフは、巨石文化が北インドにはほとんど存在せず、主として南インドに残されていることから、地中海地方から直接、海路によって南インドへ渡来したのではないかと説いている。
≪ドラヴィダ語≫
ドラヴィダ諸語の母音には、ア、イ、ウ、エ、オ、おのおのの長・短母音がある。
類型的に膠着語の一種として分類される。
一方、シュメール語は周辺に同系の語族が見られず、孤立した言語と考えられているが、類型的には膠着語であり、母音は、ア、イ、ウ、エの四つである。
また、日本語も膠着語に属し、大野晋や藤原明が、ドラヴィダ語族のタミル語と日本語との親族性を強く主張している。
≪航海術≫
アッカドのサルゴン王の碑文に、「キシュの王シャルルキーン。かれは三四回もの戦闘を勝ち抜き、海の縁に至るまで[あらゆる]城壁を打ち毀した。メルッハの船、マガンの船、ディルムンの船をアッカドの波止場に停泊させた」とある。
シャルルキーンとは『竜の柩』のシャルケヌのことである。
サルゴンの興したアッカド王朝による交通・交易の要衝の確保は、アッカド市を広範な東西貿易の一大中心地たらしめ、アッカドの港には各地の船舶がひきもきらず停泊したという。
その中に、メルッハという名が出てくる。
これはインダス河口にあったのではないかと推測されている。
などをその根拠とする。
メソポタミアとインダスの間で活発な交易活動が繰り広げられていたのである。
ドラヴィダ民族は、古来から航海術に優れ、海上交易を行っていた。
このことは、先ほどの、ドラヴィダ族が地中海地方から直接、海路によって南インドへ渡来したという説や、タミル語の伝播という説と併せて考えると非常に興味深い。
【イラン】
イラン神話にも龍・牡牛・月が登場する。
ササン朝期の中世ペルシア語文献によれば、イランの歴史的時間は一万二千年よりなり、これはさらに善神オフルマズド(アフラ・マズダの中世語形)と悪神アフリマンとの戦いの様相によって、四つの時期に等分される。
アーリア人はかつて中央アジアで遊牧生活をおこなっていたが、前二千年紀に入ると南に移動し、インドとイランに定住する。
インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』と、イランのゾロアスターの聖典『アヴェスタ』の最古層とは、言語のうえできわめて類似し、音の変化には一定の法則が見られ、宗教・文化に関する共通のことばが多いが、それぞれ先住民と融合して独自の宗教と文化を発達させたため、インドとイラン両民族間の相違は大きくなったと言われる。
しかし、「原初の牛」を殺したアフリマンや、龍であるアジ・ダハーカが悪神とされることに、インド神話との共通性を見ることができる。また、「原初の牛」の精液が月に集められて益獣が生まれるなど、牡牛と月が創生に関係していることが興味深い。
【新大陸】
新大陸にも龍が存在することが、石造彫刻や絵文書から知ることができる。
紀元前後からメキシコ中央高原に栄えたテオティワカン文明の神トラロックは蛇とジャガーからなり、その妻ケツァルコアトルは翼を持つ蛇であった。
四世紀頃から都市文明を築いたマヤ文明の神チャクも蛇身であった。
ユカタン半島の遺跡には蛇の造形が多数残されている。
【中国】
中国でも天地創造に龍が登場する。
天と地もない混沌の中、巨大な卵! から誕生したのは、万物の創造神・盤古。
首から上が鶏、首から下が龍で、頭はお盆のように平べったく(盤)、両足は醜く曲がっていた(古)ため盤古と呼ばれたという。
盤古の誕生の際にこぼれた卵の白身は天になり、黄身は地になり、地表に落ちた殻は岩、天に吹き飛ばされた殻は太陽、月、星になったという天地創造の話である。
盤古は死んでも体が朽ちずに崑崙山になり、魂は雷公になった。
中国最古の王朝『夏』の三皇である庖犠(ほうぎ)(=伏羲(ふくぎ))とジョカは龍の体と人の頭を持つペアで、その二神像は、手に測量の器であるきく規矩(規矩準縄)を持ち、下体は龍の相交わる形をとる。
庖犠は人類に八卦を教え、ジョカは泥をこねて人間を作ったとして有名であるが、二人とも大洪水の話がある。
地上に嵐が吹き荒れた時期に、庖犠とジョカの兄妹の家に天から雷公が落ちてきた。
父親は雷公を鉄の籠に閉じ込め、翌日雷公に水を与えないように言い残して家を留守にした。
雷公は兄妹に水を乞い、哀れに思った二人が数滴の水を与えると、雷公はエネルギーを取り戻し、鉄の籠を破って飛び出した。
雷公は兄妹にお礼に歯を与え、空に帰って行った。
二人の父親は恐ろしい事が起きると予感し、鉄の船を造った。
子供達が雷公の歯を土に埋めると、不思議な事に蔓が伸び始めた。
その後、嵐は強まり、大洪水がやってきて、鉄の船に乗った一家三人の他は、すべて死に絶えてしまった。
ある日水が引き始めると今度は鉄の船が急激に地面に叩きつけられ、父親が死んでしまった。
しかし、雷公の歯から伸びた蔓の上に落ちた子供たちは助かって、人類の始祖となったという。
庖犠とは葫蘆(ひさご)の意で、箱舟型の洪水説話を祖型とするものと言われている。
また、ジョカには、五色の石で天を修理して雨を止め、大洪水で死に絶えるところだった人間を救ったという話もある。
雨がやんだ後には五色の虹がかかったといい、龍と虹との関連が見られる。
もう一人の三皇である神農(炎帝)は、頭は牛で、体は人とされる。
神農と、五帝の中の最高神である黄帝は、生まれたときから仲が悪かった。
雷神である黄帝は、太陽神である神農と戦い、天の玉座から追い払って南方に閉じ込めた。
この神農の子孫である蚩尤は、人の体で牛の蹄を持ち、頭に角があり、銅の頭、鉄の額で、石や鉄の塊を食べたという。
蚩尤は神農が黄帝によって追われたのを恨みに思い、崑崙山にいる黄帝に戦いをしかけた。
この時に黄帝の命を受けて参戦する応龍は、翼のある龍で雨を司る。
タクロクの野で龍対牡牛の戦いが繰り広げられる。
また、黄帝の臣下に蒼頡という大変賢い若者がいて、家畜を管理するために漢字を思いついた。
しかし蒼頡は重大なミスを犯してしまった。
四本足なのに、牛という漢字に一本しか足をつけず、尾が一つだけなのに、魚という漢字に四本も足をつけてしまったことである。
オアネスの半身が魚であることを考え合わせると、牛と魚というエイリアンの漢字を取り違えてしまったという、非常に面白い逸話に思える。
さて、出土遺物からみれば、後世の龍とつながる文様や龍形の玉器はすでに新石器文化の中に出現しており、卜辞にも竜の字が方国、部族名として見える。
甲骨文の「竜」の字に特徴的なのは、その頭上にアンテナのような飾りを戴くことである。
これが後に尺木と呼ばれる龍の角となるもので、龍は尺木があるので天にのぼ升れるのだとされる。
中国では龍は平素は水中にひそみ、降雨をもたらすとされる。
しかし龍の最も重要な性格は、時が至れば水を離れて天に昇ることができるという、地上と超越的な世界を結ぶことである。
仙人となった黄帝が龍に乗って昇天したり、死者が龍あるいは龍船に乗って崑崙山に至るとされるのも、龍のそうした霊性を基礎にした観念である。
天子の象徴として龍が用いられるのもその超越性によるものであり、龍の出現が新帝の即位を表わす祥瑞とされ、また天子が儀礼に用いる衣服の文様中、龍が最も重要なものとされた。
龍を受け入れない大和政権
記紀の成立以前、既に中国の龍が日本に伝えられていたにも関わらず、記紀には「龍」と名のつく神は登場せず、龍の語が使われる事も少ない。
雄略紀に見られる龍の語句は『文選』からの借用であり、わずかに見られる龍が、豊玉姫が「産まむとし、竜に化為(な)りぬ」と記すのと、推古紀の船史竜(ふねのふびとたつ)という人名、、斉明紀の「空中(おほそらのなか)に竜に乗れる者有り」である。
八俣大蛇も三輪山の蛇も龍的な蛇と解釈されるのに、記紀には龍とは記されない。
日本では中国の皇帝ように龍が天皇ののシンボルとはならなかった。
天皇の朝服には龍の模様は使われず、御所にも龍の絵は見当たらない。
一方琉球王朝の首里城では龍が多く飾られる。
また、中国では龍の元号が多く使われているのに、日本で元号に龍の文字が使われたことが一度もなかった。
雨を呼ぶには龍に頼らなければいけないが、後述する水神に雨を祈願した。
平安京造営の際に東南に龍の棲む神泉苑を設けたが、宮中には龍を入れなかった。
荒川紘は、中国を模倣しながら独自性と正当性を主張するために龍を排除したこともあるだろうが、龍・蛇を信仰していた旧勢力に対して、大和政権が土着の龍を受け入れなかったことも見逃してはならないと指摘する。
日本では龍はしばしば蛇神と混交され、水神としての性格を帯びる。
日本の龍を探るためには、まず水神と蛇について見てみる。
水神
「龍」の神は存在しないが、旱魃や長雨の際に必ず祈願の奉幣がなされたのは、大和の丹生川上神社と貴船神社であった。
この二社の祭神とされるのは水神オカミとミズハである。
火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を産んだあと、瀕死の状態の伊邪那美(いざなみ)の尿から水の女神の弥都波能売神(みつはのめのかみ)(紀では水神罔象女(みつはのめ))が生まれ、伊邪那岐(いざなぎ)が迦具土神の首を斬った折に、その剣の柄に集まった血が手の指の股から洩れ出て生まれたのが、闇淤加美(くらおかみ)(紀では闇オカミ)。
紀の一書には高オカミと闇御津羽神(くらみつはのかみ)(紀では闇罔象(くらみつは))である。
「闇」は谷あい、「高」は山峰を意味する。
「オカミ」とは雨を呼ぶ龍のことで、松岡静雄氏はオカミとは「大神」の転訛であるとする。
さらに『常陸国風土記』の逸文に「駅家(うまや)、名を大神(おほかみ)と曰ふ。
然(しか)称(い)ふ所以は大蛇(おほかみ)多(さは)に住める。
因りて駅家に名(なづ)く」とある。
大蛇は龍であり大神なのである。
「罔象(みつは)」は、『淮南子(えなんじ)』の「水、罔象を生ず」の注に「水の精なり」、『史記』には「水の怪は龍罔象」とあり、仁徳紀のミズチと同じ語源と考えられる。
葛上郡にある鴨都波八重事代主神社の「都波(つは)」も、もともとは「弥都波(みつは)」であったと言われ、後述するようにカモも事代主も水神と関係がある。
水神は豊穣をもたらす神であり、田の神と同一視される。
また山中の水源地に祀られる場合は、山の神と同一視される。
したがって水神は、田の神や山の神と一体化している。
龍や蛇などの地霊が、水神として水脈だけでなく、山の神として地脈や鉱脈とも深く関係するのである。
蛇
『古語拾遺』に「古語に大蛇を羽羽(はは)といふ」とある。
『日本書紀』一書の天蝿斫之剣(あまのははきりのつるぎ)の「ハハ」は大蛇のことと考えられている。
吉野裕子氏は「ハハ」を、クナド→フナド、コケ→フケと同じように、「カカ」の子音転換と見て、「カカ」を「ハハ」以前の大蛇名と考える。
そして、蛇を象徴するものとして、鏡、酸漿、蔓性植物(藤も)、少彦名、案山子、光、梶、注連縄などを挙げている。
また「ナガ」や「ナギ」も蛇の古語としている。
富来隆氏は蛇神「トビ」の詳しい論証を行い、澤田洋太郎氏によれば、豊後その他の地域で言われる「トミ」や「ナガ」は蛇のことであるという。
蛇と虹
『大漢和辞典』には「虹。古へは竜の一種とし、雄を虹、雌をゲイという」とある。
「ナギ」は蛇の古語であるが、沖縄では虹を「ナギ」と呼び、蛇と虹の関連を証する。
雄略紀には栲幡(たくはた)皇女の話を載せる。
皇女は冤罪をかけられ、神鏡を埋めて自殺した。
天皇が闇夜に皇女を探していたところ「虹の見ゆること蛇(をろち)の如く」して、虹のかかった場所を掘ると鏡があり、少し行くと皇女の遺骸があったという。
虹と蛇の同一視を物語るものである。
吉野裕子氏は、虹を媒介にして鏡と蛇が関連し合っているという。
雷
落雷は古代人には神の怒りの表現として恐れられ、早くから雷は崇拝の対象とされていた。
中国の上帝、ギリシアのゼウス、ローマのユピテル、いずれも天空の最高神として崇拝されているが、その神性を雷電をもって表わしていた。
雷神は武器として石斧を利用しているが、この雷斧の信仰も世界各国に共通である。
中国では土地神の誕生日が二月二日とされているが、この日は「龍擡頭(たいとう)」と呼ばれ、龍が昇天する日ともされている。
土地によっては、この日に最初の雷鳴があると伝える土地もあり、神と龍と雷が関係する。
日本では、雷は、雨、水、蛇と結びつけられて、荒ぶる神として恐れられる反面、神としてあがめられた。
雷を方言でカンダチといっているが、これは「神の示現」という意味であり、落雷をアマルというのも「アモル(天降る)」の意味だとされている。
これらはいずれも雷を神とする考えを示すもので、かつては神が紫電金線の光をもってこの世に下るものと考えられていたのである。
記紀には火神・迦具土神(かぐつちのかみ)が切られたとき生まれた八雷神(やくさのいかづちのかみ)が登場する。
また、出雲系の神には荒ぶる神の性格を持つ雷神が多い。
雷と蛇
雷は、『万葉集』巻三に「伊加土(いかづち)」という用語例があり、「イカ」は「厳」を意味する形容詞の語根で、「ツ」は助詞、「チ」はおろち大蛇・蛟(みづち)の「チ」である。
蛇の精霊の表現であるという。
雷が蛇の形をもって出現することは、『日本書紀』雄略天皇条の少子部(ちいさこべの)スガルが三諸岳(みもろのおか・三輪山)の神を捕らえよとの命により、大蛇を捕らえたという話によっても明らかである。
捕らえられた大蛇は、雷音を轟かせ、まなこ眼を「赫赫(かかや)」かせた。
小子部スガルは養蚕とも関係がある。
大蛇の話の直前に、蚕(こ)を集めよとの命を受けたのに誤って子(こ=嬰児)を集めたため小子部連の姓を賜ったという話を記す。
『姓氏録』には小子部雷(スガルの改名)が秦氏を召集し、その秦氏が養蚕を行ったこともみえる。
桑に関する伝承では、六月一日は「衣(きぬ)脱ぎ朔日(ついたち)」といわれ、桑の木で蛇や人が脱皮するので、桑の木の下に行ってはならないという地方が多く、桑と蛇との関連がみられる。
さらに桑は雷とも関係する。
雷除けの呪言である「くわばらくわばら」の由来は一般的に、京都の桑原という所はむかし菅原道真の邸のあった所で一度も雷の災を受けなかったためであるとされる。
しかし、雷が桑の木に落ちない由来を説いた昔話や、『捜神記』に桑樹のもとで雷をとらえた話が記されており、古く中国から伝わったものと考えられている。
古代の雷神信仰と蛇と養蚕との深い関係を伺わせる。
雷と龍蛇に関係すると言えば、賀茂伝説と『常陸国風土記』のクレフシ山伝説で、どちらも三輪山伝説型の伝承である。
『釈日本紀』所引の『山城国風土記』逸文に、賀茂伝説が記されている。
山城の賀茂建角身命(たけつのみのみこと)の娘の玉依毘売(たまよりひめ)が瀬見の小川(賀茂川の異称)のほとりに遊ぶとき丹塗矢(にぬりや)が川上より流れ下り、これを取って床の辺に挿し置くうちについにはらんで男子を産んだ。
長ずるに及び七日七夜の宴を張り、建角身がこの子に「汝が父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」と言ったところ酒杯をささげて天に向かって祭りをなし、屋根を突き破って昇天した。
これが上賀茂社に祭る賀茂別雷命(わけいかずちのみこと)であり、下鴨社には玉依毘売と建角身をまつる。
社家の賀茂県主(あがたぬし)氏は玉依毘売の兄玉依日子の後裔だという。
この伝説は賀茂神社の御阿礼(みあれ)神事と関連がある。
賀茂川上流の貴船の神(闇オカミ=龍)を賀茂社裏の神山に招き降ろして若神の誕生を迎え豊穣を祈る祭りで、良く古態を保存して伝承していると言われる。
『常陸国風土記』のクレフシ山伝説では、ヌカヒコ・ヌカヒメという兄妹がおり、夜な夜な妹のもとに通う男がいた。
男の正体がわからずに妹はみごもり、小さい蛇を産んだ。
蛇は異常に成長し、とても養育できないので父の所に行くようにというヌカヒメに対し、子は泣きながら、自分を助けてくれる子供一人を付き添わせてくれるように頼んだ。
母が拒否したので、子は別れる時に怒りに耐えられなくて伯父のヌカヒコを雷の力で殺し、天に昇ろうとした。
ヌカヒメが驚いて投げた素焼きの盆が子に触れて、子は力を失って昇る事ができなくなり、峰に留まったという。
他に雷と蛇に関する伝承としては『日本霊異記』の道場法師の話がある。
農夫が田に水を引くときに童形の雷が落ちて来た。
金杖で打とうとしたところ、雷は命を乞い、子を授けることを約束し、竹の葉を浮かべた楠の水槽(プール?)によって昇天した。
農夫には頭に蛇を巻いた男子が生まれた。
その子は十余歳で朝廷の力王と力を競べて勝ち、後に寺の田に水を引くのを妨げた諸王を懲らしめたという。
雷が雨を伴うので雷神は古くから水神の属性をもっており、この話は水神としての雷と蛇の密接な関係を示している。
『打聞集(うちぎきしゅう)』には、この時落ちた雷が桑をたよりとして昇天したとも記し、これも雷と養蚕との関係を伺わせるものである。
また、道場法師が石を投げるときに三寸の深さに足跡がついたともいい、さらに『台記』には、石山寺に道場法師が爪で掻いて水を出した井や彼の足跡が残されていることを記す。
巨人説話的なダイダラボッチの伝承の反映と考えられている。
日本の各地の龍蛇――出雲
八俣大蛇以外にも、出雲には龍蛇との関わりあいが多く見られる。
出雲地方では十一月中旬ごろに季節風に乗って海岸に漂着するセグロウミヘビをホンダワラを敷いた三方に乗せ、龍神として神社に奉納する習わしがある。
出雲大社の御神体は国造であっても見ることは許されない。
無理に開けさせた松江城主松平直政によると、御神体は大きな「九穴のあわび」で、そのあわびがたちまち十尋の大蛇になった」という。
また出雲大社の背後の八雲山は古くは蛇山と呼ばれていた。
大国主神の子として国譲りの誓約を行った事代主神(ことしろぬしのかみ)は、『日本書紀』では、八尋(やひろ)の熊鰐(わに)となって三嶋ミゾクイ姫と結婚し、生まれた姫が神武天皇の后となったという。
ワニに熊の字が用いられているが、これは三品彰英氏によれば、熊を水神であるする観念によるという。
『古事記』に記す本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)の話も出雲と蛇の関係を示す。
彼は垂仁天皇の皇子で、長じても唖であった。
天皇の夢に出雲大神が現れ、本牟智和気が物が言えないのは出雲大神の祟りであるという。
天皇は曙立王(あけたつのみこ)に「倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとしきのとみのとよあさくらのあけたつのみこ)」と名を与えて介添えとし、本牟智和気御子を出雲大神に参拝させた。
その後彼は肥河の水上に滞在して、ようやく言葉の自在を得たという。
ここで肥長姫(ひながひめ)と婚するが、姫が実は蛇体であることを知って、怖くなって逃げる。
すると肥長姫は海原を照らして船で追ってきたので、本牟智和気は山の鞍部から船を引いて逃走した。
曙立王に与えた名前に、蛇を意味する「トミ」が含まれ、肥長姫の「ナガ」も蛇のこととされる。
さらに「海原を照ら」すことや、「山の鞍部から船を引いて」いるなど、興味深い話である。
また、後に述べるように三輪は蛇と密接な繋がりがあるが、この三輪と出雲も多くの点で結びつく。
大国主は、三輪山の大物主と同一であるとされ、三輪伝説にみられるように大物主は蛇である。
『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)』にも、大国主が己の和魂(にぎたま)として大物主を三輪山に居させたとある。
少彦名が海の向こうに帰った後、途方にくれた大国主の前に現れたのが幸魂、奇魂である。
この魂が自分を祀るべき場所として指定したのも三輪山であった。
少彦名の乗り物の天之羅摩船(あめのかがみぶね)の「カガ」と大蛇の古語である「カガチ」との関連を指摘する研究者も多い。
日本の各地の龍蛇――三輪
『古事記』崇神天皇の条にによると、陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘、活玉依毘売(いくたまよりひめ)には夜な夜な通う男があってついに身ごもる。
父母が怪しんで男の正体をつきとめるために、糸巻きに巻いた糸を針に通して男の衣の裾に刺すように娘に教えた。
翌朝見ると糸は戸のかぎ穴から抜け出ており、糸巻きには三巻きだけ残っていた。
そこで糸をたよりに訪ねて行くと美和(みわ)山の神の社にたどりついた。
かくて男は美和山の神であり、生まれた子はその神の子であることがわかった。
そして残った三勾(みわ)の糸にちなんでその地を「ミワ」と名づけた。
この子が神(みわ)氏(三輪氏)と鴨氏の祖である意富多多泥古(おおたたねこ)であり、三輪山の神・大物主神を斎(いつ)き祭ったという。
この説話は『日本書紀』では箸墓伝説(倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと))として記され、男の正体は三輪山の蛇とされる。
大物主を祭る神社が大神(おおみわ)神社で、ここでも蛇=大神の図式がみられる。
大神神社の祭神である大物主の「モノ」は魔物をいい、「ヌシ」は頭領の意である。
崇神天皇の代にこの神のたたりで疫病がはやり人民が飢え苦しんだので、その子孫の意富多多泥古に祭らせたところ、天下は安定したという。
魔物の頭目として大和地方で最も土着性の強い国津神の一つである。
大物主は意富美和之大神(おおみわのおおかみ)とも記されるが、名前に「富美(とみ)」が含まれているというのは考えすぎであろうか。
また、『古事記』には大物主にまつわる丹塗矢(にぬりや)型の神婚説話がある。
大物主は勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)に思いをかけ、その用便中に丹塗矢と化して陰部(ほと)を突いた。
生まれたのが富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)で神武天皇の皇后となった。
吉野裕子氏によれば、丹塗矢とは赤蛇のことである。
日本の各地の龍蛇――諏訪
諏訪大社は、建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妃神である八坂刀売(やさかとめ)をまつる。
建御名方神は『日本書紀』や『出雲風土記』には登場しない神で、『古事記』によると大国主神の子とされる。
天孫降臨に先立ち、大国主神に国土献上を問われたとき、大国主の子、事代主神(ことしろぬしのかみ)はすぐ承知したのに対し、建御名方神は反抗、追われて信濃国諏訪まで逃げたとある。
建御名方神は、またの名を建御名方富命、南方刀美神といい、「トミ」が含まれていることに既に気が付いておいでだろう。
八坂刀売神はその妃神で、「八坂」とは長くうねっている様で、蛇のことであるともいう。
建御名方神が蛇であることは、甲賀三郎説話などや雨乞いの習俗などに伺うことができる。
諏訪明神が姿をあらわす場合に巨大な蛇体という形をとることは中世の『諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』にもみえている。
また、神無月には日本中の神々が出雲大社に集まるという伝えがあるが、諏訪大社には、「神の本体が蛇なので出雲に行かない」という伝えがある。
御神渡りにも蛇体御渡りという信仰が存在するという。
『諏方大明神画詞』によると、昔、諏訪は洩矢神(もれやのかみ)が治めて平和だった。
そこに建御名方が出雲族をひきつれて侵入し、洩矢神はそれを迎え討ったが敗れた。
建御名方は諏訪氏に憑依し、大祝(おおはふり)は現人神となったという。
先住民の神・洩矢神の裔である守矢氏は神長(じんちょう)官として大祝を助けて祭りを行う。
守矢氏は土俗神「ミシャクチ」を降ろし、それを大祝に憑けて託宣が行われるのである。
御室神事では十二月二十二日に縄文時代そのままの竪穴住居を掘り、藁で作った蛇神を翌年三月まで据えておく。
大晦日の夜、大祝と神長はこの中でミシャクチの神を勧請して託宣を聞くという。
諏訪ではミシャクチのご神体は石棒であるとされる。
ミシャクチの祭祀場所は縄文中期から弥生の遺跡と一致し、そこには大樹があり石棒が祀られていることから、ミシャクチは樹を伝って下り、石棒につく精霊であると考えられている。
吉野裕子氏は『祭りの原理』で「神木―蛇―男根―石棒」の図式を示し、『蛇』の中で、ミシャグチとは敬称である「ミ」と「シャク」(赤)と「チ」(蛇)であり、「赤蛇」のことであると解いた。
神蛇が丹塗矢に化する伝承も多く、大物主や賀茂伝説には、神が人間の女性に通うときの姿として丹塗矢が登場することを指摘している。
諏訪は土着の神ミシャグチも建御名方も共に蛇神と考えられる。
日本の各地の龍蛇――常陸
『常陸国風土記』には、クレフシ山伝説以外にも蛇に関する伝承が多く記されている。
『常陸国風土記』行方(なめかた)郡の段には、夜刀神という角のある蛇神が登場する。
「ヤト」「ヤツ」は谷あいの低湿地のことで、継体天皇の時代に箭括麻多智(やはずのまたち)が西の谷の葦原の開墾を始めたが、夜刀神の群に妨害された。
激怒した麻多智は神々を打ち殺し追い払った。
柱を立てて境界を設定し、「な祟りそ、な恨みそ」と言い、自ら祝(はふり)となって夜刀神を祀った。
征服者は土着の神々の祟りを恐れ、その神々を畏怖するがゆえに崇めもした。
しかし、時代が下ると、神を無条件に怖れる時代ではなくなる。
孝徳天皇の時代に、同じ谷に池堤を築こうとした壬生連麻呂(みぶのむらじまろ)は、妨害する夜刀神を恐れる人々に、憚り怖れることなく打ち殺せと言い、神蛇は椎井の池に身を隠した。
「椎井」は「強(しい)」(強制)を暗示するものという。
夜刀神同様に角のある蛇は、角折れ浜の伝承にも見える。
古(いにしえ)に大蛇がいて、東の海に出ようと浜を掘って穴を作ったところ、蛇の角が折れてしまったという。
茨城県では蛇の頭部を取っ手とする縄文中期の土器が発見されており、「角のある蛇」ではないかと思われるような突起が頭上にあるものもある。
また、常陸と言えば、鹿島神宮について考えなければならない。
鹿島神宮の祭神は建御雷(たけみかづち)である。
この神は、イザナギが火神・迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った際に剣に着いた血が岩群に走りつきて成ったとされる。
建御雷は、天鳥船神とともに出雲に天降り、十掬剣(とつかのつるぎ)を波に逆さに突き立て、その剣の先にあぐらをかいて大国主神に国譲りをさせた。
また神武東征にも登場する。
熊野で難渋していた東征中の神武天皇に、高倉下を代理として建御雷の剣が降し与えられる。
この剣をフツノミタマという。
建御雷の名の「タケ」は猛だけしい、「ミカ」はいかめ厳しいの意味で、「ツ」は助詞、「チ」は雷(いかづち)、蛇(おろち)とされている。
今まで蛇=先住民の神という図式を見てきたが、建御雷は天孫族となっており、一見矛盾するように思える。
しかし、『古事記』には、国津神系のタケミカヅチをも載せる。
三輪氏の子孫である意富多多泥古の系譜を、大物主―櫛御方―飯肩巣見―建甕槌―意富多多泥古と記しているのである。
もともとタケミカヅチは国津神であったと考えられている。
常陸には、和邇氏の支族である春日氏や大氏が住んでおり、鹿島の大神として建甕槌を祀っていた。
大氏は意富多多泥古の一族でもある。
大和岩雄氏によると、藤原氏の台頭によって、小忌の中臣氏が大忌になりあがり、大忌である、春日氏や大氏の祀っていた鹿島や春日の神を自家の氏神として取り込み、天孫系の建御雷を新たに創作したという。
『古事記』に意富多多泥古の系譜としてわずかに建甕槌が残るのは、『古事記』を選上した太安万侶が大氏であったためという。
中臣氏の祖神は、天の岩戸や天孫降臨の記紀神話に登場し、春日神社などに祀られる天孫族の天児屋命(あめのこやねのみこと)である。
にも関わらずなぜ国津神である建御雷までもを藤原氏が氏神として取り込み、しかも春日大社の祭神の筆頭に挙げたのかという疑問に関し、中臣氏の嫡流が途中で途絶えたことと、鎌足が常陸の出であったという『大鏡』の伝承が関係するのではないだろうか。
「延喜本系」の『日本書紀』では、欽明朝の鎌子(後の鎌子とは別人)や敏達・用明朝の勝海らと、それ以後の黒田以下の系譜上の関係に触れない。
勝美は仏教受容に反対し物部氏とともに蘇我氏らに討たれている。
中臣の嫡流は勝海で絶え、常陸の鹿島から来た中臣(遠祖は大鹿嶋)が後を継いで、鎌足はその系譜だとの説があるのである。
邪悪な力の象徴
鉄は邪悪な力の象徴とされ、古代エジプトではオシリスの殺害者セトの持物であった。
ギリシア神話でゼウスを襲う怪物テュフォンは、その骨が鉄でできていたといわれる。
そのためにギリシアやイスラエルの神殿では鉄を持ち込むことが禁忌とされた。
セトやテュフォンは龍であり、ヤハウェやゼウスは牡牛であることを考え併せると非常に面白い。
製鉄の歴史
今までは、製鉄の開始は青銅器に比べて遅いと言われていた。
その理由の一つとして、鉄の融点が約1540℃と高温であって、銅の約1085℃よりも高いこと挙げられる。
しかし、ベックは、鉄の還元が銅の溶融よりも低い温度で始まることを指摘し、製鉄の起源を青銅器時代に先行すると主張した。
また、ゴーランドによれば、
という。
人造鉄の存在が、従来考えられていたより古い時代に遡ることは確かである。
メソポタミアでは前五千年ころのサーマッラー出土の鉄器があり、人造鉄とみなされている。
これに対して前4600頃―前4100頃のイランのテペ・シアルク遺跡第2期の小さな鉄球研磨器は隕鉄で、現存の資料だけでは人造鉄と隕鉄のどちらの利用が先行したかを判断を下すことは難しいという。
前三千年紀に入ると、メソポタミア、アナトリア、エジプトに出土地の分布が広がる。
ウルのジッグラト付近には溶鉱遺跡が発見されている。
この時期は人造鉄と隕鉄が相半ばしている。
前20〜前19世紀のアッシリアとアナトリア東部の交易を伝える「キュルテペ文書」に数種の鉄の名称がみられるが、そのうちの一つであるアムートゥムは金の八倍以上の価値を有していた。
まさに「金の王哉」である。
前三千年紀、アラジャホユックのハッティ人の王墓から出土した鉄剣は、人造鉄による大型の器具として最古のものである。
前二千年紀にアナトリアに入ってきたヒッタイト人は、「鉄」を意味するハッティ語の「ハパルキ」とともに、土着の優れた製鉄技術を受け継いだ。
ヒッタイトには他国が羨む高度の製鉄技術と厳重な鉄の国家統制、技術の国外流出に対する強い警戒心があったとされる。
アッシリアは鉄を国内の建設事業に使用するとともに、軍隊の鉄器武装化に努めて最初の世界帝国を実現させた。
対照的にエジプトの鉄器使用は先史時代までさかのぼるにもかかわらず、その後十分な発達をみることがなかった。
龍と考えられる邪神セトの持ち物である鉄、その受容を長く拒んだためであろうか。
古代では東洋、ことに中国とインドで、早くから製鉄技術が高い水準に達し、西洋をはるかに凌駕していたと言われている。
中国では、すでに紀元前から鋳鉄が製造されており、鋳鉄を精錬して脱炭し錬鉄に変える二段階法(間接法)が発展した。
また炭素の多い鋳鉄に炭素の少ない錬鉄を溶け合わせて鋼にする技術も生まれた。
一方ヨーロッパで二段階法が始まったのは十五、六世紀で、高炉法の出現により初めて実現したことを考えれば、こうした中国、インドの製鉄技術は驚くべき先進性をもっていることが分かる。
龍一族が通った場所と、優れた製鉄技術を有する場所が一致する。
日本でも、自然風による露天蹈鞴という方法で弥生中期から古墳時代中期まで製鉄が行われていたと考えられているが、こういう原始的な方法では遺構は残らないので証明が難しい。
神話と製鉄の関係を見ると、『日本書紀』の天石窟(あまのいわや)の段の一書にアマノハブキという手鞴(てふいご)が出てくる。
真弓常忠氏はこの天石窟の話を、銅鐸による祭祀が行われなくなり、鏡による招祷儀礼の行われた時代の反映であると考え、三世紀のことと推定している。
製鉄と龍蛇伝説
龍蛇にまつわる伝説が多く残されている出雲・三輪・諏訪・常陸はいずれも製鉄と関係が深い。
出雲は砂鉄の豊富な地で、『出雲国風土記』で大国主命の説話が多く語られる地域は、出雲でも最も砂鉄の多い所である。
特に須佐之男が降臨した鳥髪山は出雲最大の産鉄地である。
遺跡から、出雲では弥生時代中後期には製鉄が始まっていたと考えられている。
大国主命の子の阿遅志貴高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)が、名の通り鋤(すき)を象徴していること、大国主命の別名・大穴持の「穴」を、砂鉄を含む「鉄穴(かな)山」と考え、大国主命を製鉄の神とする説もある。
三輪山麓の金屋遺跡の発掘によって、弥生時代にここで製鉄が行われたのは確かである。
『古事記』の大物主の丹塗矢(にぬりや)型神婚説話に出てくる勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)と娘の富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)の名前に「蹈鞴(たたら)」が含まれていることも多くの研究者が指摘する事である。
建御名方神は、別名南方刀美(みなかたとみ)とも言い、諏訪神社は古くより南宮と呼ばれる。
『梁塵秘抄』に「南宮の本山は、信濃国とぞ承る。さぞ申す。美濃には中の宮。伊賀国には稚き児の宮」とある。
美濃の仲山金山彦神社と伊賀の敢国神社の「南宮」に共通するのは、製鉄の神を祀るということであり、南宮とは、製鉄炉を取り囲む四本の押し立て柱のうちで南方の柱を最も神聖視することによるのではないかという。
松本平一帯は砂鉄の豊穣な産出地であり、ミシャグチ神を降ろす「湛(たたえ)神事」の御宝は「鉄鐸」である。
また『諏方大明神画詞』で「洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ」とあり、洩矢神が鉄器を用いていた。(吉野裕子氏によれば「藤」は蛇を象徴するという)
もともとの洩矢神も製鉄の神で、砂鉄の豊富な諏訪に、また製鉄技術を持つ建御名方神が出雲から入ってきたのであろう。
『常陸国風土記』には、若松の浜の鉄を採って剣を造ったとし、ここは鹿島の神の山で禁足地であると記す。
若松の浦は、製鉄を行った遺跡がいくつか発見されている。
以上より、龍一族とは製鉄の一族であることが言えよう。
世界各地の神話や伝承を調べると、あまりにも『竜の柩』の龍対牡牛の仮説と符合することに驚かざるを得ない。
龍対牡牛という視座を与えられたとき、今まで解けなかった謎が解け、一見無関係に思えたものが、深い意味を持って目の前に現れる。
ということは、この仮説が真実に近いということではないだろうか。
<I>
参考文献
『龍の起源』荒川紘 紀伊國屋書店
『龍のファンタジー』カール・シューカー著・別宮貞徳監訳 東洋書林
『四大文明 [メソポタミア]』NHK出版
『メソポタミアの神話』矢島文夫 筑摩書房
『鉄を生み出した帝国』大村幸弘 日本放送出版協会
『シュメール語入門』飯島紀 泰流社
『四大文明 [インダス]』NHK出版
『インドの神話』田中於菟弥 筑摩書房
『ムー謎シリーズ 8インド神話の謎』学研
『ムー謎シリーズ3世界の神々と神話の謎』学研
『ギリシア神話』フェリックス・ギラン著 中島健訳 青土社
『ムー謎シリーズ5世界の神々と神話の謎 東洋編』学研
『ペルシアの神話』岡田恵美子 筑摩書房
『悪魔の辞典』フレッド・ゲティングズ 大瀧啓裕訳 青土社
『古事記』小学館
『日本書紀』小学館
『日本書紀』岩波書店
『風土記』小学館
『神道の本』学研
『日本の神様読み解き事典』柏書房
『八百万の神々』戸部民夫著 新紀元社
『日本の神話伝説』吉田敦彦・古川のり子 青土社
『常陸国風土記にみる古代』井上辰雄 学生社
『日本古代祭祀の研究』真弓常忠 学生社
『神社と古代民間祭祀』大和岩雄 白水社
『諏訪信仰史』金井典美 名著出版
『日本神話と古代信仰』松前健 大和書房
『大神と石上』和田萃 筑摩書房
『日本神話と氏族』講座 日本の神話8 有精堂
『出雲神話』松前健 講談社
『謎の出雲帝国』吉田大洋 徳間書店
『改訂版 出雲神話の謎を解く』澤田洋太郎 新泉社
『世界大百科事典』平凡社
『日本史広辞典』山川出版社