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古史古伝と神代文字


 古史古伝

 神代文字


古史古伝

古史古伝とは、神代を歴史的叙述の対象とし、神代文字に関する伝承を有する古文献と称されるもので、多くは没落した民族の伝承と伝えられ、アカデミズムに史料的価値を認められない共通性がある。


『上記(うえつふみ)』

序文によると1223年に豊後太守大友能直父子ら七名によって編纂されたもの。天保初年に豊後の国学者・幸松葉枝尺(さきまつはえさか)によって発見され、明治以降流布した。伝本には宗像家に伝わった「宗像本」と、明治六年に発見された「大友本」がある。明治十年に吉良義風により『上記鈔訳』が出版されている。
神代から神武天皇までの歴史が豊国新字という神代文字で記されいる。特色は、

  1. 『古事記』との関連が著しいが、『古事記』より詳細な記述も多く、説話に女権的色彩が濃い。
  2. ニニギに先立ちスサノオに始まる出雲七代の歴史が記されている。
  3. 神武以前にウガヤフキアエズノミコトを世襲する七二代の継続王朝を介在させること

などである。
このウガヤフキアエズ王朝について、田中勝也氏は、七百年もの間変化のない王号をもって同一の地に実質的な世俗王権が続く可能性は小さいとしている。
また、豊国新字は山窩(さんか)文字との類似が指摘されており、『上記』は明治初期の九州の山窩が作ったという説がある。
序文は偽作という見方がされているが、本文が文体・用語の面で記紀・『万葉集』の時代でさえ死語となっていたような語彙が使われているなど、『上記』の価値は定まっていない。
吉良氏の『上記鈔訳』が、ウガヤフキアエズ王朝を記す他の古史古伝(『竹内文書』『九鬼文書』『富士古文献』など)に影響を与えたと言われている。


『竹内文書』

武内宿禰の孫の平群真鳥が、雄略天皇の命により神代文字を翻訳した原本の写しと、皇祖皇太神社由来の神宝類を含む資料の総称。平群真鳥は、武烈天皇の密旨によって、高天原の故地である越中に隠遁してこれらを庇護したという。竹内家の養子である巨麿は明治四三年に天津教を開き、大正末から昭和初期に『竹内文書』を公表した。その後不敬罪で起訴され、狩野亨吉氏の文献批判によって偽書と断じられた。
内容は原始神の宇宙創成から神々の地球降臨、人類の誕生、二度にわたる超古代文明の興亡を伝える。
世界的、壮大なスケールの記述が多く、世界には五色人が存在し、みな日本から発したこと。モーゼ、マホメット、釈迦、孔子などが来日して教えを学んだこと。ボストンやサンフランシスコ、アフリカ、オセアニアなどという地名まで登場する。
また、太平洋にある「ミヨイ」「タミアラ」という謎の大陸の滅亡に関する記述があり、オリハルコンを彷彿させるヒヒイロガネという金属も記されている。
『竹内文書』もウガヤフキアエズ王朝を記すが、その歴代天皇名の漢字表記が『上記鈔訳』と非常に類似している。もともとの『上記』の原文が漢字ではないことを考えれば、『竹内文書』は『上記鈔訳』に基づいてウガヤ王統譜を造作したことは明らかである。
明らかに疑わしい点が多いにも関わらず、『竹内文書』は、戦前は皇国史観ゆえに国粋主義者に、戦後はUFOや太古の航空機の伝承との関係でSF愛好者に支持され、また、戦前の風潮への反発から、大和朝廷以前に先王朝が成立していたという内容が超古代史研究者をひきつけている。


『秀真伝(ほつまつたえ)』

三輪季聡(すえとし)が大三輪氏の祖神・大物主櫛甕玉命(くしみかたまのみこと)が記した神代の伝承にその後の歴史を交え、景行朝に朝廷に献じたもの。季聡は大田田根子であるとする。
大三輪氏の流れを汲む井保家に伝えられていたものが、近江の三尾神社に奉納され、その写本が天保年間に小笠原通当によって書写され、以来小笠原家に伝えられてきたものを、松本善之助氏が公開した。
全文が秀真文字で書かれた五七調の叙事詩で、特徴は、

  1. 記紀のアマテラスが男神アマテルとして語られる。
  2. 宇宙創造において、原初神・国常立から流出した地水火風空の五元素が混じりあったとされ、古代インドの宇宙観と一致する。
  3. イサナミがアマテルを産んだ際に嬰児は胎衣に包まれて卵のように見えたとあり、朝鮮の建国神話に見られる卵生説話を連想させる。
  4. 高天原は日高見国にあり、その日高見国を仙台地方とする。
  5. 天孫降臨はニギハヤヒとニニギの二度あったとすること、

などである。
また、天祖・国常立の八人の子(八御子神)の最初の文字を順に読んでいくと「とほかみえひため」となる。神道の唱言に「とほかみえみため」というものがあり、意味不明とされてきたが、これは「とほかみえひため」の誤伝で、八御子神の偉業をたたえる呪言であるという。
『秀真伝』は五七調を貫徹しているが、古代では字余りなどの変則句が含まれるのが自然であること。また漢語を無理やり読み下した形跡があり、漢字渡来以前の文章とが思えないこと。序文の短歌が石川五右衛門の「磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ」に似ていること。「めかけ」という江戸時代以降の言葉が出てくること。秀真文字による花押が存在するが、花押は九五〇年以降に登場すること。秀真文字は母音と子音の組み合わせで構成され、五十音図の存在を前提とするものであるため、上代の音韻に基づいて作られたとは考えにくいこと、などから偽書であるとされている。


『宮下文書』(富士文献)

秦の方士徐福が八五隻の大船団を率いて渡来し、紀州熊野に到着した。その後富士山麓に土着し、阿祖山太神宮に伝わる伝承を編纂した。この『徐福伝』を原本とし、度重なる書写と編集を経たものという。阿祖山太神宮の宮司である宮下家に伝えられていたが、噴火や火災によって殆どが失われ、残ったものが明治になって封を解かれ、大正十年に三輪義X(よしひろ)が整理・編集し『神王紀』として出版した。
多くの伝承が混交しており、文書同士の矛盾も多いが、富士山こそ蓬莱山であり、高天原が富士山麓にあったとする主張は全編を貫いている。
日本の神々はもともと大陸で発祥し、高皇産霊神が初めて東方進出を志し、子の国狭槌尊とともに富士山麓に都を置いた。高皇産霊神の死後、国狭槌尊は先遣隊を率いて先に日本列島に来ていた兄・国常立尊と再会し、日本列島を分割統治したとする。
また、三貴子としてスサノオのかわりにヒルコが登場し、スサノオはアマテラスと対抗して皇位継承を要求する乱暴者とされている点も特徴である。
『宮下文書』も『竹内文書』同様、ウガヤ王朝の記述が『上記』と符号し、また木花咲耶姫尊の悲劇的な説話が『ラーマーヤナ』と酷似するなど問題点は多いが、古史古伝のなかで唯一原本の影印版が刊行されており、今後の研究が待たれる。


『九鬼(くかみ)文書』

九鬼家の遠祖で天児屋根命(あるあめのこやねのみこと)の時代に記録された神代文字の原文を藤原不比等が漢字に書き改めたもので、丹後綾部の九鬼氏が保管してきたという。天児屋根命は、記紀では皇孫邇邇芸能命(ににぎのみこと)に従って高天原から高千穂に降り立った天津神の一人とされる神である。
この文書の本来の性格は、九鬼神道の教義であり、神代史はその一部にすぎないが、その内容の一番の特徴は出雲王朝を正統としていることである。万国の首都である高天原は出雲の地にあり、スサノオの系譜に現在の天皇が繋がるとされているのである。
また物部氏滅亡の際に、「あめつちのことふみ天地言文」の写しが、守屋一族、大中臣一族、春日一族、越前の武内一族によって保存されたいう、古史古伝の伝存に関わる記述がある。
日本とユダヤの交流を記している点でも異色で、この文書の公開を働きかけ、『九鬼文書の研究』を書いた三浦一郎は日ユ同祖論者として知られていた。
『九鬼文書』は『竹内文書』の影響が強いと指摘され、出現経緯や内容・表現から見て、近代以降の成立である事は明らかである。また綾部の大本教との関係が深いともされる。

キャラクターの背景 九鬼氏 参照


『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』

三春藩藩主秋田孝季が藩史編纂のため妹婿の和田長三郎の協力を得て収集した史料を編纂したもの。和田家で代々書写して伝えてきたもので、昭和22年に和田喜八郎氏の天井裏から箱ごと落下して発見されたという。
内容は古代津軽の民・荒吐族の国家と大和朝廷の抗争の歴史、及び荒吐族の末裔である安倍氏・安東氏・秋田氏の活躍と没落である。
荒吐族とは、アソベ族・ツボケ族など縄文人を思わせる先住民、神武東征によって邪馬台国を追われた安日彦・長髄彦兄弟の一族、中国系渡来民の混成によって成立した民族であり、いわゆる蝦夷の主力だという。
その真贋をめぐり世間の耳目を集めたが、編纂者と発見者の筆跡や誤字が一致することや近代的な知識がなければ書けない内容も多く、偽書であることはほぼ確定している。



『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)』

聖徳太子が推古天皇の命を受け編纂したものとされる。伊雑宮(いさわのみや)の神庫から長野采女によって発見され、一六七九年に出版された高野本が流布した。
歴史的記述と文化的各論を加えた膨大なスケールの文献で、全編に神儒仏三教一致思想が流れており、特に教典というものを持たない神道の教典的性格を有する。
歴史的記述は、長髄彦の陸奥亡命説や飯豊皇女を「清貞天皇」として天皇に立てるなど、異伝を多く伝える。
伊雑宮の方が伊勢内宮より古くからアマテラスを祀っていたという記事が伊勢神宮の反発を招き、江戸幕府により偽書として禁圧された。文書の由来や作者などには依然謎が多いとされる。


『物部文書』

成立・編者ともに不明。秋田県仙北郡の唐松神社の神主・物部家に伝来した。その祖は物部守屋の子・那加世とされている。
祖神ニギハヤヒの鳥海山降臨と、天日宮の創建、物部氏の大和への西遷、長髄彦との和睦、神武への従属、神攻皇后の北海征伐、崇仏戦争の敗北と物部氏の故地回復などが、天日宮に関連した縁起譚となって記されている。
また、聖徳太子が神として美化され仏教説話的奇譚で飾られているのも特徴である。
物部氏の家伝である禁厭伝や祈祷法が記されており、物部氏の宗教儀礼を知るうえで貴重であり、大和物部氏が所持した十種の神宝を秋田の物部家が伝えたと書かれている。現在はこのうちの五種が存在しているらしい。
文体からは古代まで遡るものではなく、阿比留草(あひるくさ)文字が使われていることも偽書視されている理由である。


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神代文字

神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって、上古の日本にかつて行われたと称せられる文字で、「神字」と書いて、「かんな」とも呼ぶ。
古史古伝の多くに、神代文字が登場する。『上記』は豊国文字、『秀真伝』や『三笠紀』は秀真文字で書かれており、全文でなくとも神代文字が使われている古史古伝は多い。『九鬼文書』には春日文字など、『竹内文書』には百種以上、『宮下文書』には阿祖山文字、『物部文書』には物部文字、『東日流外三郡誌』には津保化砂書文字などが出てくる。
また、対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見され、平田篤胤によって「日文(ひふみ)」として紹介された阿比留(あひる)文字・阿比留草文字がある。
静岡の浅間神社、神奈川の大山阿夫利神社、埼玉の三峰神社などの神璽や、洞窟や岩などにも神代文字と言われる文字が記されている。
このように神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々であるが、問題はそれが本当に神代から存在していたものなのか、日本固有のものなのかという点にある。


神代文字研究の歴史

神代文字が存在したとする説は、おそくとも室町時代から神道家の間にひろまっていた。
江戸時代、新井白石が、出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘した。一方貝原益軒は『古語拾遺』の言葉を挙げてその存在を否定した。当時賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定していたが、多くの神道家が神代文字肯定派であった。復古神道の推進者、平田篤胤は神代文字に関する資料を全国に求め、『神字日文伝』の中で日文を正真の神代文字とした。一方、伴信友は『仮名本末』で神代文字の偽造説を説いて否定した。
明治に至り、神道家の落合直澄が『日本古代文字考』を発表し、考古学上の文字資料を集成してその存在を肯定した。一方、国文学の山田孝雄は、『所謂神代文字の論』において、個々の神代文字について偽作であるとした。豊かな国語・国文学的知識からの博引傍証からなるこの書の中で、実際の古典に神代文字で記された実例がないことを述べ、阿比留文字などもハングル文字の模倣であると断言した。この山田論文によって、学者としてその存在を信ずるものはほとんど影をひそめるにいたった。ただ昭和年代に入っても、愛国者や軍人のなかにその存在を信ずるものがあって、政治問題にまでも発展しかねない事件を引き起したことがある。
その後国語学者の大野晋が奈良時代の母音の数によって、神代文字は平安時代以降の偽作と論じ、決定的な否定論と思えたが、言語学者の松本克己や国語学者の森重敏は、この八母音説を否定している。


神代文字否定派の論拠

  1. 神代文字の形を分類すると、だいたい甲骨文字とハングルの二つに大別できるほど良く似ている。ハングルは、朝鮮の京城で一四四三年に創案された表音文字である。神代文字の中で最も有力なものとみなされた日文は、明らかにこのハングルに基づいて作られたものである。
  2. 古代に固有の文字がなかったということについては、平安時代の『古語拾遺』に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されている。
  3. 神代文字で書かれた古い文献のようなものは一つも残っていない。
  4. 漢字に先立ってすでに固有の文字があったとすれば、わざわざ漢字を輸入して日本語を写したり、それから仮名を発達させたりする必要は考えがたい。
  5. 仮名は音節文字であるのに、神代文字は一種の単音文字であり、神代文字はその構成において、仮名よりも一層進歩した文字とみなされる。
  6. 神代文字は四七音ないし五〇音しか書き分けない。奈良時代以前にまでさかのぼると、日本語の音節には「いろは」四七文字では書き分けられない八七種類の音(甲乙二種類の音があり、母音が八つ)があり、それらは五十音図のうちには収められないところの音であった。すなわち、いろは歌や五十音図だけでは示しきれないところの音が上代にはあったのである。これらを「万葉仮名」ではちゃんと書き分けてその区別を守っている以上、もし神代文字が真に仮名以前のものであったとすれば、少なくとも、もっと多くの字体がなければならないのに、いわゆる変体仮名にあたるものさえなく、きわめて整然とした統一をもっているのである。神代文字は多く四七字か五〇字から成っており、それが「いろは歌」や五十音図の影響下に後世偽作されたことを示している。


神代文字肯定派の反論

一方この奈良時代の八母音説に対し反対する意見もある。松本克己は、奈良時代の八母音は、漢字という書記法が日本語の発音を微妙に書き分けたことによる一種の虚像であるとして批判し、また、国語学者の森重敏は文法論と語構成の立場から奈良時代の八母音説を否定している。

また、佐治芳彦は、平田篤胤の門弟たちが収集した岩窟や石窟に残っている神代文字(ペトログリフ)について、山田・大野両氏が言及していないことを批判している。


おわりに

古史古伝の多くに、この後世の偽作とされる神代文字が出てくることで、古史古伝は内容以前の問題で偽書として否定されているのが現状である。


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参考文献

『別冊歴史読本 古史古伝の謎』新人物往来社
『歴史読本 『日本書紀』と謎の古代歴史書』新人物往来社
『別冊歴史読本 危険な歴史書「古史古伝」』新人物往来社
『日本超古代史の謎』佐治芳彦 日本文芸社
『謎の竹内文書』佐治芳彦 徳間書店
『謎の神代文字』 佐治芳彦 徳間書店
『[超図解]竹内文書』高坂和導編著 徳間書店
『「秀真伝」が明かす超古代の秘密』鳥居礼 日本文芸社
『秘められた日本古代史 ホツマツタヘ』松本善之助 毎日新聞社
『歴史Eye』1994年1月号 日本文芸社
『徐福伝説考』逵志保 一季出版
『神道の本』 学研
『世界大百科事典』 平凡社