アラハバキという神の名は、『竜の柩』において、ひとつのキーワードの役割を果たしている。
ヤマタノオロチ伝説の新解釈、鉄とアラハバキ族との関係、アラハバキと道祖神・少彦名神の一致など、多くの仮説を展開する上でアラハバキは重要な鍵となっている。
しかし、アラハバキは『記紀』および『風土記』などにはまったく登場しない謎の神であり、この神についての解釈は研究者において実に様々である。
ここでは代表的なアラハバキ論を紹介し、最後に『竜の柩』で展開されるアラハバキ論との簡単な比較を行なってみたい。
『竜の柩』に、この神の名が初めて登場するのは、十三湖の廻りを走る車の中で、虹人が『東日流外三郡誌』について語る場面である。
そこで、まずはじめに『東日流外三郡誌』に書かれたアラハバキからみてみたい。
『東日流外三郡誌』における荒吐神は、不統一で、不明確である。
各々の「抄」で描かれる荒吐神は、きわめて多様であるが、竹内健氏は、これを次の四型に分けている。
荒吐神とその信仰については「津軽無常抄第三」に、初期的な形や姿が記されている。
「……津保化(つぼけ)一族はかくして天然を尊び、その祭祀は今に遺れる石神信仰なり。
たとへば海辺の珍石を、川辺の珍石を神棚に祀りて是を神とせるは今尚遺れる信仰なり。
山川海辺の石を形像より珍石は神よりの授けものとして崇(おが)むは津保化一族の習へなり。
また亦土をねり、よき人形を造りて焼き固めて亡き親を偲(しの)ぶ崇行もあり。
これをイシカホノリと称しける……」
ここで、イシカホノリ(石神)信仰が、古代信仰のルーツであるアニミズム的色彩の濃いものであることがわかる。
「津軽無常抄第四」には次のようにある。
「父なる山、母なる川と称しけるは荒吐神の信仰にいでくる要語なり。
それは津軽岩木山及び岩木川を曰(い)ふ。
豊土なる津軽大平原を生じたる源は岩木山にあり。
その新陸地を産むは岩木川とぞ想ふ……津軽の民は山海を神とせるは、その幸に依る暮しより起りたる故なり」
「安東日影抄」に「荒吐は支那郡公子家の祀神にして白虎神なり。即ち軍神なり」とあり、また「東日流抄」には、「荒吐族と称せるは、晋(しん)国の古伝に曰(い)ふ、荒羽貴(あらはばき)将軍の故事に依りて称号されし付号なり」と、中国古代の武将が神格化されたものとして記されている。
あるいは「東日流日下(ひのもと)歴」には、「東日流に混血せる晋民の太祖は燧人(すいじん)氏(「三皇五帝」の一人)の系にして、爾来(じらい)は恵王(「周」の王)に属す。荒吐族と称名せるは燧人氏爾来の神にして、天地創闢(そうびゃく)の御称神なり」とある。
「旧記解」には、「東日流司政荒吐神とは、安日彦・長髄彦の二柱を称号せる神号なり」とある。
以上の四型を検討して、佐治芳彦氏は「3 アラハパキ将軍なる人物は中国に実在していない。
また、4は、この信仰がアビ・ナガスネヒコ以前からのものであったことからすれば問題にならない。
ということは、1〜2の型が、もっとも古態といえるのではあると考えられ、とすれば、やはり1の型の伝承(アソベ・ツボケ族以来の石神信仰を引き継いだもの)がもっとも、もっともらしいということになろう。」と述べている。
アラハバキは、『東日流外三郡誌』のみに登場する神ではない。
日本各地には、小さな社として、あるいは末社としてアラハバキを祀る神社がある。
民俗学においては、アラハバキ神はどのように理解されているのであろうか。
1、客人神(まろうどかみ)、地主神(じぬしかみ)説
柳田国男氏は、『石神問答』において「諸国に客大明神(きゃくだいみょうじん)・客人(まろうど)杜・門客人(かどまろうど)明神杜などという小杜があって、それがアラハバキと称されることもある。
いずれも神名・由来ともに不明である」と述べている。
また、柳田氏が編集した『綜合日本民族語彙集』には、「宮城県多賀城村に阿良波波岐(あらははき)明神杜、玉造(たまつくり)郡一栗村に荒鋤(あらはばき)権現杜などあり、参詣人は脛巾(はばき)を供える。
武蔵国にも荒脛巾(あらはばき)神杜の例がいくつかある。」と記されているが、この神の由緒や信仰の特色などについてはふれられておらず、最後に「マロウドガミを見よ」とある。
客人神とは、その神社の主祭神との関係が深くない神で、主神の祀られている拝殿の一隅に祀られたり、「門(かど)客神」と称され随神のような所に祀られたりする神である。
客神が祀られるのは、外から来た神が霊力をもち土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと解釈されている。
このように客人神を外から来た神とする考えにに対して、折口信夫氏は、次のように述べている。
「地主神みたいな、神杜以前の土着神―おそらく土地の精霊―を、かえって客神として取り扱う。
だからあべこべに、ほんとうの後来神または、時あって来る神を客神、客人権現などいう名で示していないのだと思います」つまり、客人神というのは、後来の神ではなくて、神社の建つ前の地主神、もしくは土着神だというのである。
石上堅氏も、『日本民俗語大辞典』で、アラハバキ神を旧土地神(地主神)と見る「門客人地主神説」を打ち出している。
「門客人を『ハバキ神』というのも、脛巾をつけて旅を続けて来たゆえの称呼で、元は、遠来の『遠津神(とおつかみ)』のことで、この神がほんとうは、その土地草分けの地主神であったのだ。
それが、あとから来た今来神(いまきのかみ)に、その本殿を譲って、別殿の神となったのだ。
遠津神という印象が、脛巾をはかせてしまったのであり、これがさらに神門に安置される左右の武臣にまで変る原因でもあった……」
中山太郎氏は、折口氏の考えを更にすすめて『地主神考』の中で次のように述べている。
先住民族と後来の民族の交替がおこたわれたという考えに立ってみれば、客人神となったアラハバキ神とは、母屋にいた神が追い出されて自分の家の庇を借りるような形で生きながらえている神といえることができるであろう。
2、谷川健一氏の説
民俗学者の谷川氏は、『白鳥伝説』のなかで、『東日流外三郡誌』について次のように述べている。
「アラハバキの神が注目されるようになったのは、『東日流外三郡誌』という奇怪な書物が青森県北津軽郡の『市浦村史資料編』として戦後出版されて以来のことである。
その書には荒吐族が登場して活躍する。
いかなるところからこのアラハバキをもち出してきたかは不審な点である。
それには興味がなくもない。
しかしながら『東日流外三郡誌』は明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕を、おそらく戦後になってから書きつづったものである。」
「また『東日流外三郡誌』次の文章がある。
『依て都人の智謀術数なる輩に従せざる者は蝦夷なるか。
吾が一族の血肉は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、平等相互の暮しを以て祖来の業とし……』元禄十年七月に秋田頼季が書いたとあるこの文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷にしているのをみるとき唖然とするのである。」
「『東日流外三郡誌』の文章は拙劣である。
また拙劣ながらも野趣をおびた近世文の趣きをもっているというものでもない。
こうした書物は一顧にも値しない。
『東日流外三郡誌』の荒吐族の説と私のアラハバキの説とはまったく無縁であることをここに書きとめておく。」
『東日流外三郡誌』を偽書と明言する谷川健一氏は、これまでの民俗学のアラハバキ神の解釈を受けついで次のように述べている。
このように、アラハバキを定義した上で、谷川氏は「門客人神としてのアラハバキ神の性格は西国と東国とでは一般的にはおなじであるが、具体的にみるとちがっている」と語る。
以下は、谷川氏独自の東国におけるアラハバキ神の性格である。
陸奥国鎮守の多賀城において、阿良波々岐(あらはばき)明神が、多賀城をかこむ築地の外に、しかもその築地の近くに置かれていることを、谷川氏は注意すべきこととして挙げている。
そして「これはあきらかに外敵退散のために置かれたことを伝えている。外敵とは何か。陸奥の鎮守として創建された多賀城の役割は蝦夷を治めること以外には何もなかったはずである。」と述べている。
また、多賀城のほかにも、玉造柵や後方羊蹄(しりへし)の政庁にアラハバキ神社があることを挙げ、「侵入する邪霊を防ぐための神がアラハバキであった。この場合の邪霊は抽象的で眼に見えない存在ではなく、明らかに蝦夷であった。そこに西国の場合とちがう東北におけるアラハバキ神杜の特異性があると私は考える。」と語る。
さらに「多賀城は天平九年の『続日本紀』の文章には多賀柵と記されている。柵(き)はもともとサクであり、サクはサエギルの意味をもっていたと考えられる。柵養(きこう)とは柵のなかに蝦夷の俘囚、つまり捕虜にしたり降服した蝦夷をかこっておくことである。その蝦夷は来襲してくる蝦夷とたたかうこともあったと考えられる。
……蝦夷をもって蝦夷を制するというのは、伝統的な蝦夷統治の政策であった。それと同時に古代においては大きな怨霊の力を借りて、外部からおしよせる邪霊を防ぐこともおこなわれた。大きな怨霊をもって小さな怨霊を制するやり方である。たとえば刑死した大津皇子の屍を二上山頂に葬って大和平野の外がわから侵入する邪霊を撃退させる方法をとった。こうした考えはそのまま蝦夷にも適用されたにちがいない。熟(にぎ)蝦夷をして荒(あら)蝦夷を防がせたとしても、双方ともに化外の民であるという意識は大和朝廷側には共通であった。
これを一歩すすめると、かつての先住民族たる蝦夷が後来の侵入民族に土地をうばわれて、主客の位置が転倒したという歴史的事実を遠い背景に置いているように思えるのである。」
そしてアラハバキについて、「……その神の実体は蝦夷の神であった。蝦夷の神をもって外敵である蝦夷を撃退させようとした。それは異族である隼人に宮門を守らせ、犬吠えをさせるのとおなじ心理であった。また、道ゆく人を殺すサエの神とも似通っていた。
……かつて村国が分断され、孤立していた時代には境の神はきわめて重要な役割をもっていた。しかし、アラハバキはたんなる境の神ではない。それは先住民族の面影をやどす異族の神である。アラハバキももともと名前をもたない蝦夷の神であったのが、やがて門客人神として体裁をととのえられ、大和朝廷の神杜の中に摂杜または末杜として組み入れられていったのである。」と述べている。
3、吉野裕子氏の説
吉野裕子氏は、アラハバキを箒神(ほうきがみ)との関連から捉えている。
ほうき箒の本来の訓みは「ハハキ」であり、吉野氏はこれを蛇の古語である「ハハ」に起因するという。
箒神とは、人間の生と死の両場面に登場する神である。
出産における箒神の信仰は全国的で、安産になるように産婦の枕許に箒を逆さに立てるなどの風習が見られる。
また、『記紀』において、天稚彦(あまのわかひこ)の葬儀で鷺(さぎ)を掃持(ははきもち)としたとあり、死にも箒がかかわっていたことが解る。
今でも、長野、島根、青森の葬列においては、燈火が先頭を行き、次が箒あるいは竜蛇のつくりものであることから、吉野氏は「箒と竜蛇の位置の一致は、両者の本質の一致を暗示し、つまり箒は蛇なのである」という。
古代の日本人は祖神を蛇ととらえていたため、「出生の場には祖霊の蛇の来臨が不可欠であり、葬送にはその導きがいるとされた。つまり、この箒を「蛇木(ははき)」ないしは「竜樹(ははき)」としてとらえることにより、箒神が祖霊である蛇のシンボルとして出産の場に立ち会い、また葬送の先導となることがはじめて分かるようになる。」と述べている。
伊勢神宮内宮の御敷地には、ハハキ神が祀られている。
この神は、大宮地の地主神であり、御敷地外側に鎮座している。
吉野氏は、「土地の守護神は、エジプトやその他の例でも、蛇神であって、聖域の外側に鎮祭される。
伊勢神宮のハハキ神の鎮座方向が辰巳、祭祀時刻が巳刻、祭祀日が土用で、土気に関係すること、『矢之波波木(やのははき)』という名称から、蛇神と考えられる」という。
また、このハハキ神と関連するものとして「荒神」に注目する。
荒神の神体は藁の蛇が多く、荒神祭の主役をつとめたあと、大木に巻きつけられ、次の祭りまで一年間、同族や村人を守護することになっている。
「荒神の由緒は、はっきりしないが、この両者をつなぐものとして中問にアラハバキ神をおくと、この神々の本質も明らかになる」と吉野氏はいう。
アラハバキは、門客人明神社、客人社と呼ばれることを前述したが、これらの神が、荒神に繋がっている例が見られるという。
島根県の八束郡(やつかぐん)千酌(ちくみ)の尓佐(にさ)神社に付属する荒神社の通称は、「オキャクサン」あるいは「マロトサン」であるが、尓佐神社の宮司によると、「この荒神社が昔は、アラハバキサンと呼ばれていた。
島根半島にはこうした例は少なくない」という。
「つまり、アラハバキ、マロト、荒神の三者はひとつなのであり、この本来一つの神が、別の名で呼ばれている背景には、何らかの筋道があるはずである。
そしてこの推理の参考になるのが、伊勢神宮のハハキ神である。
この神は天照大神を奉斎する内宮の御敷地の主であるが、おそらく新来の神にその場所をゆずって、自身は土地の守護神の形で、御敷地の外側に鎮まっている。
そうしてこの神は、蛇神ゆえに辰巳の隅に祀られることになるが、これはそっくりそのまま、各地の古杜におけるハハキ神のあり方であった。
内宮の敷地の外側に祀られるハハキ神は、いわば門神であり、門のかたわら傍に居るために客人のように錯覚される。
こうして一見したところ、後から来た客人のように見えるハハキ神は、実際は宮地の旧主であり、地主神なのである。」という。
ハハキ神とアラハバキと荒神の関係について「この御敷地に顕現するハハキ神は、その内から外へあらわになった意味で、『顕波波木(あらははき)』といわれるようになり、ここに『アラハバキ』の神名が新しく生まれることになる。
『アラハバキ』には『顕(あら)』よりはやさしい漢字『荒(あら)』があてられて、『荒波波木』となり、やがてこの『荒波波木』から『波波木』が脱落してたんに『荒神』となり、それが『コウジン』と音読されるにいたったのではなかろうか。」という。
さらに荒神と箒の関係については「神戸市布引(ぬのびき)では、応神社から「荒神箒」を借りてきて祀り、産気づくとその箒で腹を撫でる。
安産すると新しい箒をもとめて水引をかけて祭る。
もとの箒はたいてい三宝荒神(さんぼうこうじん)様の「荒神箒」にするという。
この産神としての箒神の一つ、『荒神箒』の成立も、荒神とハハキ神がもとはひとつの神であったとすれば、きわめて自然なこととして納得できる」という。
佐治芳彦氏は、『東日流外三郡誌』を、東北ないし蝦夷のアイデンティティの流れとして採り上げている。
『東日流外三郡誌』は、かなり多くの問題性を孕んだ史料集であるとしながらも、そのなかを一貫して流れる縄文以来の先住民的アイデンティティに共鳴するところがあることを語っている。
佐治氏は、『東日流外三郡誌』の中のアラハバキと、吉野裕子氏のアラハバキ=荒神=蛇神説との共通性を指摘する。
荒神祭りの藁蛇は次年度の祭りのとき、新たなものと交換されて焼かれるが、これは、祖霊の再生・新生(蛇の脱皮新生)を表している。
一方、『外三郡誌』のなかでは、アラハバキ神は、生死循環の祭りの神(イシカホノリ)として記されている。
荒神は、
の二つに分けられる。
佐伯氏は「アラハバキ神の場合の荒神は、後者の荒神であるが、前者の荒神も、暗闇に輝くカマドの火→蛇(はは)の目の輝きということから、やはり荒神=ハハキ神=アラハバキ神ということになろう。」と述べている。
また「東日流のアラハバキ信仰は、汎日本列島的先住民の神であり、いうなれば、日本列島の地主神としてとらえたいのである。
アラハバキは、先住民にとっての地主神であり、おそらく、その信仰は、縄文期にさかのぼるであろうし、それが、竜蛇神であったとしても、おそらく出雲以前の神であろう。
」という。
さらに「アラハバキ信仰は、縄文土器に渦巻文が出現した、竜蛇神信仰が生活に溶け込んだ時代から先住民の信仰となったのではあるまいか。
すなわち、縄文中期以来の信仰である。
竜蛇神信仰を示す縄文土器の渦巻きのモチーフは、北方的というよりも南方的、より具体的にいえば、メラネシア的なものである。
だが、そのルーツは、はるか四万四千〜二万五千年前のオリャック文化にまでさかのぼるものだ。
とすれぼ、蛇神信仰としてのアラハバキのルーツはメラネシアだけではなく、ユーラシア大陸北部をも、やはり考慮しなければならないだろう。」と述べている。
近江雅和氏は、弥生時代前後に始まる古代製鉄の存在を追っているうちに、アラハバキ神という謎の信仰にぶつかったという。
近江氏は、アラハバキが西日本では「大元尊神」とよばれることがあることに注目する。
この大元尊神とは、古代インドの一種族の土俗信仰であった鬼神ないしは夜叉である「アーラヴァカ・ヤクシャ」の漢訳である。
芦田献之氏は、このアーラヴァカ・ヤクシャについて次のように述べている。
「古代インドの一種族の土俗信仰であった鬼神ないしは夜叉であるアーラヴァカ・ヤクシャは、仏教に取入れられると強力な仏法の守護神となり、紀元前三世紀の原始仏教経典『スッタ・ニパー夕』や『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』に説かれるようになった。
五世紀になるとインドでは密教がさかんになり、土俗信仰をはじめとして、ヒンズー教の神々も受けいれて、高度に教理化された密教仏典が成立した。」
このときアーラヴァカ・ヤクシャは梵語名でアータヴァカ・ヤツカと呼ばれて仏法守護神の明王部に入れられた。
東晋の時代になるとインドや西域の密教僧による訳経が行なわれるようになり、「アータヴァカ.ヤクシャ」は「阿臈鬼(あらき)」「褐陀披鬼(わたばき)」「アタバクダイヤシャ」と漢字で音写されている。
七、八世紀の唐代になると、中国に密教がもたらされ、密教経典の訳出が行われた。
この時代になるともはや音写ではなく、義訳による漢訳経典が現れて、「大元帥」の形になっていく。
そして、道教と習合し「大元帥明王法(たいげんみょうおうほう)」という皇帝独占の国家鎮護の秘法が形成される。
大元尊神の原点である「アーラヴァカ・ヤクシャ」を信仰した古代インドの種族は、「アーラヴィー」(林住族)である。
この「アーラヴィー」は、南アラビアからインドに入って住み着いた一団であり、その後、アーリア系の侵入で森林曠野に住んでいたことが、紀元前三世紀のインド・マウリヤ王朝の宰相カウテリャの著書『実利論』に記されていると近江氏は指摘する。
このことから、アラハバキ信仰の原点が南アラビア地方にあるという。
日本と南アラビアの関連を立証するものとして、近江氏は榎本出雲氏が提唱する、日本語の「南アラビヤ起源説」を取り上げている。
榎本氏は、アラビア語と日本語には二千以上の対応語があると述べ、言語ばかりでなく、日本の古代信仰や、習慣にも今もなお根強く生きていると言う。
アラビア半島の東南端にあるヤマン(英語でイエメン)は、アラビア人、アラビア語の発祥地である。
アラビア民族は、発生以来現在まで残存している部族を「バーキィ」と呼び、この中でもアラビア居住のアラブ人を「アリーバ」という。
近江氏は「『アラハバキ』をアラビヤ語でみると、アラァ(神)、バーキィ(残存している人でヤマンの人々を指している、不滅の、永遠の)から、『ヤマン部族の神、不滅の神』いうことである。」と述べる。
近江氏によればアラハバキの信仰は、弥生時代のごく初期、あるいは縄文時代の終りの頃に日本への第一次渡来したものであるという。
「ヤマンからの渡来経路については陸路と海路の両方があるが、縄文時代の終り頃かと思われる時代に、南回りの海路で海人系がアラビヤ半島から持ち込んだ」と述べている。
さらに「大陸回り、南の海路からの両方が考えられるのであるが、そのいずれも同一の信仰形態のものであって、この日本最古ともいえる神は唯一絶対の神であった。」と述べている。
第二次の渡来は、南アラビアからインドそして中国を経て「大元尊神」として日本にもたらされたものであり、近江氏はそれを『記紀』成立時期と見ている。
アラハバキが大元尊神と変化した理由を近江氏は『記紀』神話による圧力に対する抵抗ととらえ、「『記紀』に対する執拗なまでの反抗は、アラハバキが変容する経過にも現れていることを知ることができよう。」と述べている。
『竜の柩』で語られるアラハバキは、以上述べたアラハバキ論を、ほとんど包括していることに驚かされる。
近江氏が挙げるアラハバキと鉄の関係、吉野氏のアラハバキ蛇神説を、「ハハは、蛇の古語であり、アラは鉄滓を示す言葉であるから、アラハバキとは鉄を作る蛇の民を意味する」と実に端的に述べている。
また、道祖神が龍の神であるいう仮説を立てているが、塞の神(道祖神)=アラハバキであることから、アラハバキが蛇神であるという説と一致する。
『竜の柩』で明らかにされたように、アラハバキ=道祖神=少彦名であり、また少彦名とヒルコは兄弟であることから、ヒルコ=夷とアラハバキは同族の神であるといえる。
谷川氏は「蝦夷の神をもって外敵である蝦夷を撃退させようとした」とアラハバキの東国での性格を述べているが、これはまさに夷=毘沙門天が北方鎮護の役割を担ったことと重なる。
また『竜の柩』では、道祖神を龍の神とし、牡牛の神つまり天孫族が日本に天降る以前の神であるとしているが、これは、アラハバキが地主神であるという民俗学の指摘と同じである。
さらに『竜の柩』では、龍の神の起源をシュメールのオアネスに求めている。
日本語とシュメール語の類似は戦前から指摘されており、前波仲尾氏は『古事記』の原文をシュメール語で訳している。
アラビア語は、シュメール語を吸収したアラム語と同じセム語に属することから、日本語のまた日本人のルーツが古代オリエントにあることを示唆しているように思える。
アラハバキ神に対する解釈は、研究者によって全く異なり、実に多様な説が提唱されている。
しかし、この一見何のつながりもないそれぞれの解釈が、『竜の柩』のなかでは、ひとつの線状に繋がってくる。
このことは、『竜の柩』のアラハバキ論こそが、論理的に統一されたアラハバキの真の姿を捉えているということを物語っているといえる。
<A>
参考文献
『東日流外三郡誌1』 八幡書店
『白鳥伝説』 谷川健一 集英社
『日本人の死生観 蛇 転生する祖先神』 吉野裕子 人文書院
『東日流外三郡誌の原風景』 佐治芳彦 新人物往来社
『記紀解体』 近江雅和 彩流社
『復原された古事記』 前波仲尾 復原された古事記刊行会
『ヤマト国家は渡来王朝』 澤田洋太郎 新泉社