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天武天皇と陰陽道

『日本書紀』天武天皇の巻には、冒頭、天皇の出自や幼名などが紹介されたあと、いきなり「天皇は天文や遁甲(とんこう)の術をよくされた」という文章が現れてくる。そして、その実例として、壬申の乱の際のエピソードも記されている。

「横川(よかわ)に着こうとするころ、黒雲が現れ、広がって天を覆った。天皇はこれを怪しんで、式(ちょく)を執り、『これは天下が二分されるという天象だが、最後には私が天下をとるであろう』と占った」
式盤で占うというのは、それらの記号によって描き出された象の背後にある意味を総合的に解読することであり、天武天皇がこれを行ったのならば、その陰陽道的知識は非常に高度なものであったはずである。
天武天皇が、陰陽道を重視した理由として、一つには、地上の王として天に通じようとする意図があったため、また一つには実践的戦略兵法として利用するためであったと思われる。
壬申の乱に勝利した後、天武天皇は、陰陽道の管理に乗り出す。陰陽道が政権転覆の強力な道具となりうることは、自己が立証済みであったからだ。このような理由と、中国の律令制度にならっての国家建設という理念から、天武天皇は陰陽道を国家体制に組み込み、厳重な管理のもとにおいた。それが、六七六年の記事に現れる、官僚機構としての陰陽寮、および、日本初の占星台の建設である。

天武天皇と陰陽道の関係について、大和岩雄氏は、天武を養育した大海氏と、役小角で知られる賀茂役君氏が、ともに葛城(現在の御所市)とその周辺に居住していたことをあげている。また、賀茂系氏族が、壬申の乱で、天武側について活躍していることも、天武と賀茂氏とのかかわりの深さを示していると述べている。
さらに天武天皇が、壬申の乱の前に吉野に逃れるが、ここで天武を守った鬼が役小角であるという伝承もある。
一方、天武天皇は、その出生に謎がある、という指摘がある。というのは、『日本書紀』に年齢の記載が全くなく、鎌倉中期や、南北朝時代に書かれた文献の崩御の年を採用すると、天武天皇は、通説では兄とされる天智天皇より四歳年上になってしまうからだ。このことから、「天智、天武非兄弟説」(小林恵子(やすこ)氏、佐々克明氏、李寧熙(りよんひ)氏、井沢元彦氏)と、「天智・天武異父兄弟説」(大和岩雄氏、豊田有恒氏)という二つの仮説が生まれた。
豊田有恒氏は、「天智・天武異父兄弟説」に立って、天武の実父を高向臣と見ており、「天武が遁甲の術を能くした」のは、『日本書紀』に天文遁甲を学んだと記載されている、大友村主高聰(おおとものすぐりたかとし)と高向氏が同族だからだという仮説を立てている。一方、大和氏は、天武の実父を斉明天皇の前夫である高向王とするが、天武が高向氏とかかわりが深いことを挙げ、天武の遁甲を高向氏の線からみる豊田説に賛同している。

いずれにせよ、天武天皇が自ら式盤を以って占うほどの陰陽道的知識をどのようにして習得したかは謎である。その答えは、陰陽道思想において大宇宙の表現とされる八角形の墳墓の中で、皇室の祭祀から除外されてひっそりと眠る、天武天皇のみが知っている。

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