陰陽道とは何か。その起源は紀元前二千年の古代中国にまでさかのぼる。日々刻々と移り変わる自然の脅威にさらされていた人々にとって、その変化を予測することは、生命維持に直結する最大の関心事であった。やがて人々は天地運行の中に神を認め、神と一体化することによりその答えを得ようとする。シャーマニズムの誕生である。シャーマンは「蜥易(せきえき)」すなわちトカゲ、ヤモリ等の爬虫類を駆使し、雨乞い等の宗教儀礼を行い、占術によって神意を探った。しかし、これらは余りにも断片的であり、非論理的であった。
このため人々はよりすぐれた方法を得ようとする。万物の根源を突き詰め、万物を原理的、構造的に把握し、それを理論的に体系づければ、次に起こりうる出来事を推測することができると考えたのだ。
つまり陰陽道とは宇宙を貫く普遍の原理により、世界の意味と動きを解読する思想と技術の全体を指すものである。
中国では、世界を陰陽に還元する思想が、経験の中から生み出された。陰は、山の日陰、陽は日当たりが原義であるが、やがて寒暖の意に用いられ、気の自然哲学と結びついて、一年の気候の推移を支配するものとして考えられるようになった。やがて、陰陽は気の大いなるものとされ、万物を生み出す二大要素とみなされた。陰陽の二元は、さらに四象(ししょう)という四元に展開し、四元から森羅万象を構成する八つの気の状態、つまり八卦 (はっか)を展開する「易」の思想へと進んだ。
八卦 (はっか)とは、陰爻と陽爻とを三本重ねることによって創られた八種類のパターンで、
乾 (けん)・兌 (だ)・離 (り)・震 (しん)・巽 (そん)・坎 (かん)・艮 (ごん)・坤 (こん)をいう。これらはそれぞれ、天・沢・火・雷・風・水・山・地を象徴するものである。
また、この陰陽・八卦の思想とは別に、万物・万象を「 木 (もく)・火 (か)・土 (ど)・金 (ごん)・水 (すい)」という五つの気の動き、すなわち「五行」に還元する思想が段階的に生み出された。やがて、この陰陽八卦と五行の思想が結びつき、これらは縦横に組み合わされた。
五行は陰陽に分けられ(木の陽と陰が甲・乙。以下、同じ要領で火は丙丁、土は戊己(ぼき)、金は庚申、水は、壬癸 (じんき))、また五行は八卦に配当された。八卦は組み合わされて宇宙の全体像としての六十四卦になり、六十四卦を導き出すために要する陰陽の数一万千五百二十が、万物の数とみなされた。
このように、世界を読み解く記号体系として、陰陽・五行説を用いたため、この思想と技術は、後世「陰陽道」と呼ばれるようになった。
春秋時代の末に、儒教を創めた孔子は、次第に陰陽五行思想を取り入れ、陰陽二気を、地上の聖人と、宇宙の主宰者である天帝に対比させ、聖人は天帝の道、すなわち天道を地上に移し実現させるものとし、聖人が君子となることによって天下泰平になると説いた。こうして聖人は天道の霊感による体得者として呪術的に権威付けられ、それが儒教と政治権力者との結びつきを促す結果となった。漢の時代になると、董仲舒(とうちゅうじょ)が、大宇宙としての天(自然)と、小宇宙としての人(人事)とには対応関係があるという、「天人相関説」や、皇帝の振る舞いが天の意志や、天の徳にかなっていない場合、災いを起こして天が戒めるといった、「災異 (さいい)思想」を唱えた。
陰陽道と結合したのは儒教ばかりではない。森羅万象を記述ずる記号としての、陰陽・八卦・五行は、さらに時間と空間を記述する記号としても用いられた。
空間で言えば、東西南北と中央の五方は五行によって説明され、より細分化された八方位は八卦によって説明された。これにより、相地術(そうちじゅつ)や方位術(風水)の理論的背景ができあがった。
時間の記述には、十干と、十二支を組み合わせた六十干支が用いられた。月齢の周期が一年約十二回繰り返されることから、一年を十二の段階に区分し、これを植物が季節の推移にしたがって変化していく様に対応させ、その上動物の神聖観を絡ませて十二支が考え出された。同じように植物の発生、繁茂、成長、凋落の過程の解釈から、十干(甲・乙・丙・丁・戊(ぼ)・己・庚・申・壬・ 癸 (き))が生まれた。六十干支の一つ一つがすべて五行に還元されるから、これにより五行と暦法が結びつき、暦をもとにしたあらゆる占いの理論も、ここから生じた。
また、五行は「天譴災異(てんけんさいい)」を探る上で欠かすことのできない天の五星、木星(歳星(さいせい))、火星(熒 惑星(けいごくせい))、土星(鎮星 (ちんせい))、金星(太白星)、水星(辰星)と結びつくことにより、天文術に発展した。
さらに、人体臓器と五行の対応により、陰陽五行思想は医術とも結びついた。
このように、陰陽・八卦・五行の思想は、中国の文化全てに浸透し、中国民衆宗教を代表する道教にも、大きな影響を与えた。
大和朝廷成立以前から、日本には、朝鮮半島からの渡来人などによって、散発的に陰陽五行の思想がもたらされていた。その後、国家が形成されてくると、王権を支える思想や、王の呪術的権威を補強する理論・技能が必要となってきた。
『日本書紀』継体天皇7年(513)の条に、百済から五行博士が貢られたという記事がある。儒教の聖典である五経中には、『易経』が含まれているので、村山修一氏はこれをもって、陰陽道の日本伝来とする。その後、暦博士、易博士、などの専門家や、陰陽五行思想に通じた渡来僧が、天文、占筮、遁甲、相地、暦法などの陰陽道関係書籍とともに、これを伝えた。
中国においては、陰陽五行理論は、占術、呪術以外に、自然科学や博物学、哲学、医学などの諸分野でも主要な理論として用いられた。しかし、日本ではそれらの学問が未発達であったこともあり、また、陰陽後五行思想が、仏教僧侶や道教とともに日本に流入してきた関係もあって、占術、呪術方面での活用が中心となった。
天武天皇は、壬申の乱に勝利すると直ちに、官僚機構としての陰陽寮を設置し、陰陽道を国家管理のもとにおいた。したがって、律令体制に組み込まれた陰陽師の仕事は、当初は官僚的性格のものだった。
しかし、藤原氏が権力の中枢に入り込んで、律令制がほころびだすと、陰陽師も、国家に仕えるだけでなく、天皇や有力公家の私生活に入り込み、彼らの精神生活の一部を支配しだした。
また、この時代、陰陽道思想の一般化が進められ、在野に優れた陰陽家が多数現れた。陰陽五行思想の日本化は、この時期に大幅に推し進められ、陰陽道が日本のオカルテイズムの源流として機能していく。
十世紀に賀茂家が台頭した後、稀代の陰陽師・安倍晴明が登場すると、両家が陰陽道を世襲化したため、陰陽道自体の進歩、発展は著しくそがれ、陰陽五行説は秘伝として、神秘のベールに包まれることとなった。一方、市井の陰陽道は、呪術色を深めながら、闇の部分に浸透していった。
陰陽道と他の宗教の習合は、奈良時代から徐々に現れ始めたが、特に平安期に興った、真言・天台の密教と最も緊密に結びついた。
次に、星の占い、呪術、占術の三点から、陰陽道と密教の関係について述べる。
陰陽道では、星は地上の吉凶を司る神そのものであった。それゆえ、星は早くから占いの対象であると同時に、信仰の対象にもなり、二十八宿、日月五惑星の七曜、北斗七星などが祀られ、占われてきた。
一方、仏教では密教占星術がまず奈良期に導入され、九世紀初頭に空海が『宿曜経』を伝来し、以後オリエントからインドを経由して中国に入った数々の占星術が日本に導入され、人の出生時からホロスコープを割り出す今日的な占星術を完成するに至った。この密教占星術は宿曜道と呼ばれた。
本来、密教占星術で扱う二十八宿はインドのそれであって、陰陽道の二十八宿の典拠となっている中国の二十八宿とは別物であった。しかし、日本ではこれが混同され、陰陽道と密教占星術は早くから習合し、日本的占星術ともいうべきものを作り出していった。密教には陰陽道系の星神が仏教外護の天部の神々として取り込まれ、また陰陽道には密教系の天部が星神として取り込まれた。
降雨を祈願する「祈雨 (きう)法」は密教においても仏法の功徳を示す最も重要な修法として執行された。祈雨法を成就させるためには、神仏の加護が必要なことはいうまでもないが、ほかに天象(とくに日月および雲などの気色)についての知識が不可欠であり、この分野での権威とも言うべき陰陽道の知識が仏教に流れ込んだ。
さらに、密教における祈雨法には、青という色がいたるところで用いられたが、これは雨すなわち水を呼ぶものが五行の木(これは色でいえば青になる)であるという五行の思想に由来する。また、祈雨法が密教と陰陽道合同で行われた例もある。
呪詛においても、密教と陰陽道の集合が見受けられる。陰陽師が人を呪殺する際に使うまじものは、呪う相手を象ったヒトカタ(人形)であり、密教でもこのヒトカタを用いた秘密修法は数多く行われてきた。
占いの面でも、陰陽道の知識と技術は大量に僧侶の中に流れ込んでいる。僧、浄蔵は、占筮によって人の運命を占い、その上で、必要に応じて加持祈祷を行った。また、仁海は、祈雨法を修するに当たっては、まず占筮によって、その結果を占った。また、天皇の病気の原因を調べるさいも、易を用いており、いわば、密教の呪術と占いは、密教呪法の両輪として機能した。
道教とはいかなるものか。福永光司氏は、次のように述べている。「道(タオ)の不滅と一体になることを究極の理想とする漢民族の土着・伝統的な宗教である」と。道(タオ)とは、宇宙と人生の根源的な真理、もしくは真実在の世界を指す。道教は、もともとは、中国古来の巫術、もしくは鬼道の教えが基盤にあり、その上に上帝鬼神の思想信仰、儒家の神道と祭礼の哲学、老荘道家の<玄>と<真>の形而上学、さらには中国仏教の教理儀礼などを重層的・複合的に取り入れたものである。
道教の神学教理の基礎理論としては、陰陽五行説に基づく <易>もしくは<易緯>の哲学が導入され、その根幹を占めている。このため、福永氏は「日本で古来、陰陽道とよばれている呪術的な道術も、道教の単なる一部分でしかなく、道教の神学教理の全体系のうち、陰陽五行の易学理論と特に密着するものを取り出して、陰陽道と呼んでいるに過ぎない」とまで言い切っている。
つまり、道教呪術が日本的展開をみせたものこそが陰陽道であり、陰陽道は、占星術、方位術、反閇、祓い、人形などの具体的呪法を道教から引き継いでいる。