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鬼と呼ばれたもの
【「おに」の語源】
【漢字「鬼」】
【「鬼」の字の日本での初見】
【和訓「おに」】
【『日本書紀』に見られる「鬼」】
【鬼の分類】
【想像上の鬼】
【歴史的実在としての鬼】
【大和朝廷などの体制に従わない人々】
【鬼もしくは鬼の子孫】
【愛され続ける鬼】
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【「おに」の語源】
1 「隠(おん)」の字音から転じた
2 「陰(おん)」の字音から転じた
3 日本古代の固有言語
4 オホビト(大人)のこと
の四つの代表的な説がある。
1 「隠(おん)」の字音から転じた
「おに」の語源説で最も古いのは、日本最初の百科辞典とも言える『和名類聚抄』である。
鬼和名於爾 或説云、隠字音於爾訛也、鬼物隠而不欲顕形、故俗曰隠也
鬼は物に隠れて形が顕れることを欲しないので俗に「隠(おん)」といい、それから「鬼(おに)」と言うようになったというのである。一般にはこの説が有力とされている。
2 「陰(おん)」の字音から転じた
しかし、貝原益軒(『日本釈名』)、新井白石(『東雅』)は、「陰(おん)」説を採る。
陰(おに)は音を以って訓とせしなり。いける人は陽なり。死せる人は陰(おん)なり。(『日本釈名』)
大和岩雄は『鬼と天皇』の中で
陰と隠は死にかかわる表記として同じに使われているのだから、陰と隠の二つの意味の「おん」が「おに」に転訛した
と、1と2の折衷説を述べる。
3 日本古代の固有言語
3の説は、折口信夫が『信太妻の話』の中で、
一体おにという語はいろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今、勢力を持っている「陰」「隠」などの転音だとする漢音語源説はとりわけこなれない考えである。
と、漢字の転音であるという説を批判し、
日本の古代の信仰の方面では、「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった(『鬼の話』)
として、「おに」は日本古代の固有の語であるとしたものである。
これに対し大和岩雄は
「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、もの」は、平安時代なら適用するが、それ以前は、「かみ」「たま」「もの」の三つであって「おに」は入らない。(『鬼と天皇』)
と批判している。
4 オホビト(大人)のこと
4も折口が示した説(『日本芸能史ノート』)で、
オは大きい意。ニは神事に関係するものを示す語。オニは神でなく、神を擁護するもの。巨大な精霊、山からくる不思議な巨人をいい、オホビト(大人)のこと(『日本国語大辞典』)
とするが、鬼は巨大なイメージだけではない。
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【漢字「鬼」】
「鬼」という字の解釈は様々であるが、死体をかたどった象形文字に、後に賊害の意味を持ち音を表す「ム」の部分が加わったものとみられている。
中国においては、「鬼(き)」は死者の霊魂を意味する。人間は陽気の霊で精神をつかさどる魂と、陰気の霊で肉体をつかさどる魄(はく)との二つの神霊をもつが、死後、魂は天上に昇って神となり、魄は地上にとどまって鬼となると考えられていた。
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【「鬼」の字の日本での初見】
現存遺跡では法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の中の「鬼前大后」(聖徳太子の母の穴穂部間人皇女のこと)とあるのが「鬼」の字の初見で、飛鳥時代から「鬼」の字が用いられていたことを示す。
日本の文献に「鬼」字が初めて使われたのは、『出雲国風土記』で、大原郡(おおはらのこおり)阿用郷(あよのさと)の名称起源を説いた文である。
昔或人、此処(ここ)に山田を佃(つく)りて守(も)りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつくる)る人の男(をのこ)を食(くら)ひき
と書かれている。「目一つの鬼」という鬼の形態と食人性、山との関連を示しており興味深い。
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【和訓「おに」】
漢字の「鬼」という字が「おに」という和訓を獲得し、それがほぼ定着したのは平安時代末期のころで、それまで『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼の字を「もの」「しこ」「かみ」と訓じていた。
●なぜ「おん」ー「おに」になったのか
なぜ「陰」「隠」の「おん」が「鬼(もの)」にとってかわったかについて、大和岩雄は
晴明や保憲は、普通の人には見えない異界(陰・隠の世界)のもの(鬼)たちを見ることができ、自らも「隠形の術」をおこなっている。こうした陰陽師とかかわる「おん(陰・隠)の鬼(もの)」が表記で「物・者」と区別されただけでなく、言葉も区別され、「もの(物・者)」に対して「おん―おに(鬼)」といわれるようになったのだろう。(『鬼と天皇』)
と述べている。
●「もの」とよむ「鬼」
折口信夫は
極めて古くは、悪霊及び悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを『もの』と言った。万葉などは、端的に『鬼』即『もの』の宛て字にしてゐた位である(『国文学』)
と書いている。
この「もの=精霊=鬼」とみる折口説に対して、大野晋は「『もの』という言葉」と題した講演で
『もの』という言葉は『精霊』という意味だけで使われたのではない
と批判し、
『もの』という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す『もの』という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して『もの』と使う、存在一般を指すときにも『もの』という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も『もの』といった。
古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった。
と述べて、「鬼」を「もの」と訓じていた理由を説く。
藤井貞和も『古事記』の「物」表記三四例をあげ、大部分が物象一般だとして大野同様に折口を批判しているが、その中で僅かに「得体が知れない存在物」で『物』としかいいようのないものがあることを認めている。(『物の語り ー モノは『霊魂』か『物象』か』)
大和岩雄は、藤井の言う「得体が知れない存在物」を「霊魂に近い」ものとみて、物象と霊魂の両義性が「もの」にあるという考えを示している。そして、この両義性が、人が作った「物」にも霊魂が宿るという日本人的な発想を生み、付喪神(つくもがみ)を造ったと説明している。
ヨーロッパ人は、「物」と「霊」をはっきり区別している。だから人工的に作られた「物」は妖怪にはならない。(『鬼と天皇』)
同じように、荒俣宏は『妖怪草子』の中で
日本と違って西洋では、道具を人間が作り出しているという意識が非常に強い。だから人工物には霊が宿らないのです。
と述べ、小松和彦は付喪神について
そういうものはかなり昔からあったと思います。ものに対する日本人の感性が、相当前から育んで来たイメージでしょう。
と語っている。
付喪神と呼ばれるこの「神」は、百鬼夜行絵巻に描かれているように「鬼(もの)」である。
●「しこ」とよむ「鬼」
『万葉集』では、巻二、百十七番の舎人(とねり)親王が舎人郎子をおもう歌で、
大夫や片恋せむと嘆けども鬼(しこ)の益らをなほ恋ひにけり
と「鬼」を「しこ」と読ませている。
「鬼」は「醜」に通用させたもの(『新編日本古典文学全集 万葉集』)であるとされ、馬場あき子は
鬼の面貌が「醜」につながることが、一般的な訓をみちびき出しているこの例は、中国的な〈鬼〉の概念がすでに広く流入していたことを思わせる。(『鬼の研究』)
という。
一方、『現代語対照 万葉集(上)』では、しこ(鬼・醜)について
本集のシコの用字例には「鬼」の字が五例もあり、『鬼』は一方でモノとも訓まれているので、シコは、異郷・霊界から出現するモノ(精霊)と同義に考えられたようである。それが醜く、けがらわしく、うとましいさまをいうようになり、さらに自嘲的な表現にもなったのであろう。
と注釈を付けている。
また、大国主の別名は「あしはらしこを」といい、記は「葦原色許男」、紀は「葦原醜男」と書くが、西郷信綱はこの「しこを」について、
彼を鬼類・魔性のものと見なしていたためで、たんに醜い男ということではない。(『古事記注釈』)
と述べている。大和岩雄は大国主神の名前の変化に注目している。大国主は記・紀では大穴牟遅(おほなむぢ)神とも名乗るが、
「根の国」(中略)に行ったとたん、この大穴牟遅の名は葦原色許男に変わっている。根の国には黄泉の国のイメージがあり、(中略)この国から逃げて黄泉比良坂(よもつひらさか)を抜け出ると、大国主に名を変えている。
大国主神は、黄泉国にいるときにのみ「しこを」を名乗っており、「しこめ」は「黄泉(よも)」がつくように、黄泉国にいる「しこめ」である。いずれも「しこ」は死の国にかかわっている。
「しこ」の漢字表記に「鬼」を用いたのは「しこ」が死の国とかかわる言葉だったからであろう。
と推論している。
●「かみ」とよむ「鬼」
折口信夫は『信太妻の話』の中で、
聖徳太子の母君の名を、神隈とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとかおにとかにきまってゐる。してみれば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。基地は、畏るべきところとして、半固有名詞風に、おにくまともかみくまとも言うて居たのであらう。
と言う。
馬場あき子はこの文章を引いて
これによれば、鬼はけっしてかみとは呼ばれなかったが、「畏るべきところ」として近似した感銘から、おにをかみともいう場合があったのではないかという推測で、その例証として「鬼隈」と「神隈」と二様に呼ばれた人名があげられているが、この名称については残念ながらいまだに検証できないでいる。
と述べるが、これは前にあげた法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の中の「鬼前大后」と関係があるのではないかと思う。
このように「畏るべきところ」として「おに」と「かみ」が近似するという説の他に、次の『日本書紀』の「鬼」の検討から、「おに」は「かみ」の蔑称であるという考え方がある。
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【『日本書紀』に見られる「鬼」】
『日本書紀』で雷以外の鬼関係の記事を挙げる。
1「神代紀」で高皇産霊(たかみむすび)が瓊々杵(ににぎ)を葦原国に派遣しようとした時。
彼(そ)の地(くに)に、多(さは)に蛍火の光(かがや)く神、及び蠅声(さばへな)す邪(あ)しき神あり。復(また)、草木咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)あり。故、高皇産霊(たかみむすび)尊、八十諸(やそもろ)神を召し集(つど)へて、問ひて曰(のたま)はく。「吾、葦原中国の邪(あ)しき鬼(もの)を揆(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ。当(まさ)に誰を遣(つかは)さばよけむ」
ここでの「鬼(もの)」とは(1)「蛍火の光(かがや)く神」、(2)「蠅声(さばへな)す邪(あ)しき神」、(3)「咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)」がある「草木」のことであり、「鬼(もの)」のなかに「神」が含まれていることに注目すべきである。
2「神代紀」で、派遣された経津主(ふつぬし)神・武甕槌(たけみかづち)神のニ神が大国主の国譲りのあとで、
是に、ニの神、諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)等を誅(つみな)ひて、果(つひ)に復命(かへりことまう)す
とある。馬場あき子は、この「誅(つみな)ひ」という対象が先住者の国つ神にあたり、先住民族の「かみ」に〈鬼〉字をあてたことを、「強い民族意識を表だてつつ討伐の記事にみちている『日本書紀』」の鬼の概念だという。(『鬼の研究』)
3「景行紀」には、天皇が東国遠征に向かう日本武尊(やまとたけるのみこと)に対して
山に邪(あ)しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(もの)あり。衢(ちまた)に遮(さいぎ)り径(みち)を塞(ふさ)ぐ。多(さは)に人を苦(くるし)びしむ。其の東の夷(ひな)の中(うち)に、蝦夷(えみし)は是(これ)はなはだ強(こわ)し。
と言う。馬場あき子はこの「山に邪(あ)しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(もの)あり」を、「鬼は邪神と対をなす同じ系列のものとして認識されている」と書く。
そして、その考えがあるからこそ、2の大国主の国譲りのあとで「諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)等を誅(つみな)ひ」というように、「かみ」に「鬼神」をあてるのだと記している。
また、大和岩雄は、この景行天皇の言葉の「姦(かだま)しき鬼(もの)」とは蝦夷のことを指しているとして、「『日本書紀』が辺境の蝦夷らを正史の立場で蔑視したため」に葦原中国の「神」を「鬼(もの)」といい、蝦夷らの異人をに「姦(かだま)しき鬼(もの)」としたのだと説く。(『鬼と天皇』)
大野晋は『岩波古語辞典』で
人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。
とし、『源氏物語』で
痴れもの、すきもの、ひがもの、古もの、わるもの、なまけものどもなど、片寄った人間、いい加減な人間、一人前でない人間などについて、モノという複合語が使われ、痴れひと、わるひと、ひがひとなどとはいわなかった。それは、モノがヒト以下の存在だという基本の観念が働いていた結果である
と書く。(『日本語をさかのぼる』)
これらのことから大和岩雄は、次のように結論する。『古事記』で「まつろわぬ人」と書くのに対し、『日本書紀』が「ひと」を「もの」といい、さらに「鬼」という字をあてるのは、正史である『日本書紀』の史観によるもので、神・人で、物に近いと蔑視されたものが、「鬼(もの)」なのである。(『鬼と天皇』)
4「欽明紀」には、魅鬼(もこ)(鬼魅)の文字が見られる。
越国(こしのくに)言(まう)さく。「佐渡嶋の北の御名部の碕岸(さき)に、粛慎人(みしはせのひと)ありて、一船舶(ふね)に乗りて淹留(とどま)る。春夏捕魚(すなどり)して食に充(あ)つ。彼(そ)の嶋の人、人に非(あら)ずと言(まう)す。亦(また)鬼魅なりと言(まう)して、敢(あへ)て近づかず。嶋の東の禹武邑(うむのむら)の人、推子(しひ)を採拾(ひろ)ひて熟(こな)し喫(は)まむと為欲(おも)ふ。灰の裏(なか)に着(お)きて炮(い)りつ。其の皮甲(かは)、ニ(ふたり)の人に化成(な)りて、火の上に飛び騰(あが)ること一尺餘許(あまり)。時を経て相闘ふ。邑(むら)の人深く異(あや)しと以為(おもひ)ひて、庭に置く。亦(また)、前の如く飛びて、相闘ふことやまず。人有りて占(うら)へて云はく、「この邑の人、必ず魅鬼の為に迷惑(まど)はされむ」といふ。久(ひさ)にあらずして言ふことの如く、それに抄掠(かす)めらる。
粛慎人(みしはせのひと)とは、ツングース系民族とも言われる。
鬼は(中略)『日本書紀』において、初めて、天皇に仇成す討たれるべき「諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)」として登場する。それらは、天皇権力に敵対する蝦夷や異人種の粛慎人を魅鬼(もこ)(鬼魅)として蔑視するものであった。こうした有形の鬼は、死して怨霊と化し、天皇に害を及ぼす無形の鬼へと変貌していく。(『陰陽道の本』)
5「斉明紀」天皇の葬儀がおこなわれた日の夕方、朝倉山の上に
鬼有(あ)りて、大笠を着(き)て、喪(も)の儀(ぎ)を臨(のぞ)み視(み)る。衆(ひとびと)、皆(みな)嗟怪(おかし)ぶ。
この二ヶ月前に、朝倉社の木を切って宮殿を作ったので、神の怒りが落雷となって宮殿を壊し、鬼火となって人々を殺したという記事がある。朝倉山は朝倉の人々にとって神の宿る山であり、神木を外から来た者たちが勝手に切ったので神が怒ったのである。そして日本書紀の編者が天皇の急死の原因も同じと考えたので「鬼が天皇の葬儀を朝倉山の上で見ていた」というふうに書いたのだと、大和岩雄は考え、この「朝倉山の鬼」を朝倉山の山の神だとする。
そして以上の『日本書紀』に記された鬼関係の記事について、
わが国最初の正史において「鬼」が主に皇祖神・天皇との関係で記されていることは無視できない
とし、対照的に『古事記』には「鬼」の表記がまったくないことを考えると
このように、鬼の視点から見ると、「正史」のもつ「差別意識」「うさんくささ」が、はっきり見えてくる。
と結んでいる。(『鬼と天皇』)
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【鬼の分類】
馬場あき子は『鬼の研究』の中で、次のように鬼の系譜を分類している。
(1)神道系…日本民族学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)
(2)修験道系…山伏系の鬼、天狗
(3)仏教系…邪鬼、夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)、地獄卒、牛頭鬼(ごずき)、馬頭鬼(めずき)など
(4)人鬼系…放遂者、賎民、盗賊など、人生体験の後にみずから鬼となった者
(5)変身譚系…怨恨、憤怒、雪辱などの情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となった者
(1)〜(3)と(4)・(5)は微妙なかかわりは見せているがまったく別種であると記す。
小松和彦も「互いに深く関連し合っている」としながらも、鬼を次の二系統に大別する。
[1]想像上の鬼…説話や伝説、芸能、遊戯などにおいて語られ演じられるものとしての鬼
[2]歴史的実在としての鬼…周囲の人々から鬼もしくは鬼の子孫とみなされた人々、あるいは自分たち自身がそのように考えていた人々
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【想像上の鬼】
想像上の鬼は異様な姿で描き語られ、その基本的属性は食人性にある。〈神〉の対極にいるのが〈鬼〉であり、人々にとって恐怖の対象である鬼は、しかし最終的には神仏の力や人間の武勇・知恵のために、慰撫され、退治もしくは追放される運命を担わされていた。
また仏教思想や雷神信仰と結合し、死後に罪人が行く地獄の獄卒や天上界の雷神を鬼とみなす考えも広まった。
鬼のすみかは、人里離れた山奥や海原遠くにある島などで、そこに鬼ヶ城があるともいう。
鬼は、町や村里のはずれの辻や橋や門など異界(他界)との接点に現れる傾向があり、時刻は夕方から夜明けまでの夜の間とする考えが広く認められている。〈百鬼夜行〉という語は、鬼の夜行性をよく示している。
日本の鬼は、人間や神と互いに変換しうるものとして考えられている。鬼たちの多くは、人間とその補助物である道具などがなんらかの契機によって鬼になったもので、鬼になる契機は大別して二つある。
(1)過度の恨みや憎しみをいだくこと。
(2)年を取り過ぎること。年老いた女は鬼女になり(『今昔物語集』)、古ぼけて捨てられた道具は付喪神(つくもがみ)になるという(『付喪神記』)。(小松和彦『世界大百科事典』)
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【歴史的実在としての鬼】
小松和彦は
想像の世界の中において、人々に鬼の実在を確信させた背景には、鬼とみなされた人たちの存在があった。
とし、これを次のように分類する。
(1)大和朝廷などの体制に従わない人々
(2)体制から脱け出し徒党を組んで乱暴狼藉を働く山賊
(3)農民とは異なる生業に従事する山の民や川の民、商人や工人、芸能者たち、山伏や陰陽師、巫女たち
(4)鬼もしくは鬼の子孫とされ、自分たちもそのように考えてきた家や社会集団(『世界大百科事典』)
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【大和朝廷などの体制に従わない人々】
高橋克彦作品では、鬼とみなされた人たちの存在が大きくクローズアップされる。
先に『日本書紀』の「鬼」について見たように、大和朝廷などの体制に従わない「まつろわぬ人」は鬼(もの)と呼ばれ、彼らの祭る神もまた「鬼神(もの)」と蔑視されている。
先住者を鬼とみなしたことは、酒呑童子物語にもみられる。例えば、酒呑童子物語を書き記した最古の『大江山酒呑童子絵巻』では、酒呑童子が頼光に次のように身の上話を語る。平野山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師が延暦寺を建てたために逃げ出し、仁明天皇の代より大江山に棲みついている、と。
『日本妖怪異聞録』の中で小松和彦は
いってみれば、強力な呪力を持った外来者が、先住者である弱い呪術しか持たない者を追い払ったというわけである。つまり、先住者=民=敗者=鬼、征服者=勝者=人間
という図式が見えるとし、
酒呑童子はたしかに京の都の人びとにとっては極悪人で、仏教や陰陽道など、京の人びとの生活を守る信仰にとっても敵であり、妖怪、化物であったろう。しかし、退治される側の酒呑童子にとっては、自分たちが昔から棲んでいた土地を奪った仏教の僧や、欺し殺す武将や陰陽師たち、さらに、その中心にいる帝のほうこそ、極悪人なのである。
と記す。
これら先住者たちを討つ側の論理は「勅なれば」であり、
草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の棲(すみか)なるべき
という歌である。
天智天皇の時代に、藤原千方というものが四性の鬼を使って体制に背き、伊賀と伊勢は「是が為に妨げられて王化に順ふものなし」という状態であった。宣旨を受け、追討に向かった紀友雄が、鬼にこの歌を送ったところ、四性の鬼はたちまち四方に去って失せたという。(『太平記』)
『酒呑童子(伊吹山)』(赤木文庫旧蔵)では
土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿とさだめん
と記し、同じ主旨の歌は、他の酒呑童子の物語や謡曲「大江山」、謡曲「土蜘蛛」にも見られる。
大和岩雄は、景行天皇が日本武尊に向かって言った「この天下は汝の天下なり」という発想も、「土も木も我が大君の国なれば」と同じ発想であり、「この天皇の国には鬼の住むところはないということである」と記す。
酒呑童子の物語で印象深いのは、風流の心を持ち、まことに知恵深そうで、山伏に身をやつして潜入してきた頼光らの嘘にころりと騙されて歓待する酒呑童子の姿である。謡曲「大江山」では頼光らに討たれる酒呑童子に次のように言わせている。
情なしとよ客僧達、偽りあらじといひつるに、鬼神に横道なきものを
鬼は横道(道に外れたこと)をせず、鬼を「勅なれば」といって討つ側が横道をするという発想が、酒呑童子譚の根底にある。(大和岩雄『鬼と天皇』)
このように謡曲の作者たちが権力に討たれる鬼の側に立っているのは、彼らが差別されていたからであり、同じ差別されている鬼に心情的に荷担しているのである。
「大江山」の作者らは、室町幕府御用の芸能者だが、彼は漂泊芸能民の頂点にいた存在で、同類の多くは、天皇の「オオミタカラ」といわれる定着農耕民から差別されていた。
彼らにとって、「土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿とさだめん」といって「横道なきもの」を討つように命じる権力こそ、「横道」をおこなうものであった。(大和岩雄『鬼と天皇』)
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【鬼もしくは鬼の子孫】
鬼もしくは鬼の子孫とされ、自分たちもそう考えて来た人々がいる。
例えば、比叡山麓の有名な八瀬(やせ)童子や、吉野において役行者に仕えた前鬼・後鬼の子孫と伝えられる人々などである。
八瀬童子は、成人になっても童形の髪型(長髪の禿(かむろ)姿)で、自ら鬼の子孫であると称し、特権を得ていた。八瀬童子は大葬で天皇の霊柩をおさめた「葱華輦(そうかれん)」という輿を舁(か)くのみならず、即位の際の御大典には「鳳輦(ほうれん)」という輿も舁(か)き、両極の儀に参与する。
八瀬童子・酒呑童子・茨木童子など「童子」と名がつくものはもちろん、長髪の禿姿の金太郎・桃太郎も皆、「童子」である。
なぜ童子が鬼と関係しているかについては、仏教の護法童子との関連や、「童」が神に近い存在であったこと、童男(をぐな)と呼ばれた日本武(やまとたける)尊の荒々しさとの共通点などが指摘されている。
一方、吉野裕子は八卦からその性状を見る。
少男(乾坤六子の末子、五、六歳―十三、四歳の童男)の易の卦は艮(うしとら)、自然は山、方位は丑寅であり、童子とは丑寅の象徴だというのである。
丑寅とは、年・季節・日のいずれをとっても「陰から陽へ」の交代・変化を表している。
年―丑月(旧十二月)、寅月(旧正月)―年の境
季節―丑(冬・陰気)、寅(春・陽気)―季節の境
日―丑刻(夜深い・陰)―寅刻(暁・陽)―日の境
つまり、丑寅の象徴である鬼も童子も鬼門も「陰から陽への転換呪物」なのである。
「新旧交代によってこそ、連綿とつづくべきその永遠性は保証される」のであるから、
都の丑寅の地の住民が「鬼の子孫」を名乗り、天皇の葬儀に参与するのも、天皇命の永遠性を保証する陰陽の転換呪術のための呪物として
であると説く。(『神々の誕生』)
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【愛され続ける鬼】
鬼の物語はどれも、鬼が極悪非道の限りをつくしたから退治されるのだということが語られる。しかし、それにもかかわらず鬼は民衆に愛され続けている。
民衆の側からすれば、鬼の出現などの社会不安は、一種の徳治主義の中での体制への批判であり、鬼が反権力の象徴ともみなされたことや、鬼の絶対的な力・破壊力に対する憧れなども、鬼が愛される理由としてあげることができるであろう。
また、理由の一つに、鬼が人間に富をもたらすという福神としての側面がある。
(1)鬼とみなされた人々との交流・交換を通じて富を入手していたであろうということ、
(2)社会内部に生じた災厄などを鬼がその身に背負って社会の外に運び出してくれると考えていたこと、
(3)鬼は結局は敗れ去るものとされていたこと、等々が、鬼が福神化した理由としてあげられる。
春を招ぶ鬼には悪鬼のイメージが見られないといって珍しがる民俗学的論に対し、吉野裕子は、もともと鬼の本質には善も悪もないと説く。
鬼門とは天門・地門・人門・鬼門の四門の一つであって、「天を意味する乾―天門」と「風を意味する巽―地門」を結ぶ西北対東南の軸は、天地という「不変の定位」を示す。一方この軸と直交する「現世を意味する坤―人門」と「彼世を意味する艮―鬼門」の東北対西南の軸は、人間における「変化の運命(さだめ)」を示すものである。
鬼門に対する考えは日本独特のもので、もともと中国の古書に出てくる鬼門は、方角禁忌までは含んでいなかったのである。
宇宙の永遠性は輪廻によって保証され、その輪廻は陰陽の転換によるという古代中国の世界観に立つ限り、陰陽の境をなす丑寅の造型としての鬼は、その転換の荷い手に過ぎず、本来、その本質の中に善悪の道徳性など持ち込まれるはずのないものである。(『神々の誕生』)
以上、高橋克彦のもう一つの「鬼の物語」(まつろわぬ鬼を描いた『風の陣』―『火怨』―『炎立つ』)を念頭におきながら、鬼について纏めた。
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