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播磨国一考察


〜 陰陽師から『竜の柩』まで 〜

平安時代に名の知れわたった陰陽師には、播磨(はりま)(兵庫県西南部)出身者や、播磨の地方官に任じられたものが多い。弓削是雄は播磨国飾磨郡(しかまぐん)(現在の姫路市)出身で、播磨権少目(ごんのしょうさかん)に任じられた。滋丘川人も、播磨権大掾(ごんのだいじょう)から、播磨権介と、播磨関係の役職を歴任している。さらに、平安時代の陰陽頭に名の見える日下部利貞が播磨国飾磨郡の人で、播磨権大掾。同じく陰陽頭の賀陽豊が、播磨(はりまの)守(かみ)、あの安倍晴明もまた、播磨守に任じられている。
民間陰陽師でも、播磨との関係が密である。『今昔物語集』に名の見える陰陽道の名人・智徳は、播磨国飾磨郡出身と考えられるし、道満は、『播磨鑑』では、播磨国印南郡出身とされる。また、晴明に敗れて流された地も、播磨国佐用郡(『峯相記』)である。『古今著聞集』では、藤原公継の未来を見通した観相の名人が、やはり播磨出身と述べられている。
私は現在兵庫県に住んでいる関係もあり、このような陰陽師と播磨について、一つの考察を行ってみたいと思う。

陰陽師に関連して播磨が頻出するのは、播磨に優れた陰陽師集団があり、中央官庁や地方に人材を送り出していたからとする説がある。そして、播磨に優秀な陰陽師集団がいた理由については、牛頭天王と、播磨の関係が挙げられている。
出雲路敬和氏の『京都古社詳説』には「貞観十八(八七六)年の疫病流行時に、京都八坂郷の僧円如が、牛頭天王の祟りであるとして、当時、牛頭天王の本体と信仰されていた播磨国飾磨郡の白幣山から、疫神としての牛頭天王を都に勘定した」と記されている。疫神を鎮め祀る祭祀は、陰陽道の中で最も重視された祭祀の一つであり、牛頭天王はその疫神を統括するものと見なされていた。その本体が播磨国飾磨郡にあったことが、播磨と陰陽師集団との関連を示唆する、というものである。
また、奈良朝、唐に留学して、陰陽道の極意をえて帰国した吉備真備(きびのまきび)が、途中播磨国広峯山麓に一泊したとき牛頭天王の夢を見て、ここに牛頭天王を勧請したという伝説もあるが、村山修一氏は「平安末に安倍氏から陰陽道を学ぶものが京都祇園社の祝(はふり)僧の中から出て、主祭神である牛頭天王の疫病信仰が陰陽道と結びつき造作された説であり、播磨では祇御社出現以前より、陰陽師は活動していたと思う」と述べている。
つまり、これまでの説では、なぜ牛頭天王本体が、播磨国飾磨郡という地に祀られていたかの説明がなされておらず、播磨と陰陽師の関係も明確にされていない。このことについては、「解明は、ほとんどなされておらず、今後の究明を待ちたい」というのが現状のようだ。

牛頭天王とはいったい何者か。高橋克彦作品の読者であれば、周知のこととは思うが、一応簡単に述べたいと思う。
『備後国風土記』逸文には、次のような話がある。北海に住む武塔天神(牛頭天王)が、南海の神の娘を妻に迎えようと出かけた。途中日が暮れて一夜の宿を捜した。この地には、将来と呼ぶ兄弟の家が二軒有り、弟の富裕な巨旦将来は宿を貸す事を断わったが、その兄の貧しい蘇民将来は快く泊めて歓待した。年を経て武塔天神が八人の王子を連れて再来した時、蘇民の家に立ち寄り、「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり、後の世に疫病あらば、蘇民将来の子孫といいて、茅輪の護符を腰に着けたる人は免れるであろう」といい、巨旦を誅滅した。これが、後に魔よけの護符の起源ともなった「蘇民将来伝説」である。ここで、牛頭天王自身が、「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり」と名乗っている。
広峯牛頭天王社といわれた播磨国飾磨郡の広峯神社の由来にも、「祟神天皇の御代、約二千年前頃より、素戔鳴(すさのお)尊が祀られていた」とある。さらに、素戔鳴尊を牛頭天王とも称する根拠として、次のような『日本書紀』の記述を挙げている。
一書にいう。素戔鳴尊の行いがひどかった。そこで神々が、千座(ちくら)置戸の罪を科せられて追放された。このとき素戔鳴尊は、その子五十猛神(いそたけるのかみ)をひきいて、新羅の国に降りられて、曽尸茂梨(ソシモリ)のところにおいでになった。
曽尸茂梨(ソシモリ)とは朝鮮語で、牛頭の意味をあらわし、新羅の牛頭方とも記される。つまり、高天原から、追放された素戔鳴尊が牛頭方という土地に住み、牛頭天王になったという縁起である。
牛頭天王を祀る広峯神社のある広嶺山麓には、新羅の国の人が来宿したという新良訓(しらくに)(現在は白国)村がある。この地名は、牛頭天王(素戔鳴尊)が新羅から播磨国に渡り、広峯山に祀られたことの傍証となりうる。
『二十二社註式』によると、牛頭天王は、はじめ、播磨国明石浦に跡を垂れて広峯に移ったとある。新羅から瀬戸内海を通り、播磨国に上陸したというルートである。ここで、『播磨国風土記』をみると、牛頭天王と同様の経路をたどって播磨に上陸した人物がいることが解る。それは、新羅の国の皇子である天日楯(あめのひぼこ)である。
『日本書紀』は、天日楯に関する次のような話を載せている。
初め天日楯が船に乗って播磨の国に泊まったとき、播磨の宍粟邑(しさわのむら)にいた。天皇は三輪(みわの)の君(きみ)の祖先の大友主と倭直(やまとあたい)の先祖長尾市(ながおち)を播磨に派遣して「おまえは何者だ。またどこの人間だ」と天日楯に問いただした。これに対し天日楯は「私は新羅国の王子だが、日本国に聖皇がいると聞き、自分の国は弟の知古(ちこ)にまかせて帰化いたしました」と答えた。このとき天皇に献上した物は、葉細(はほそ)の珠(たま)、足高(あしたか)の珠・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の珠・出石(いずし)の刀子・出石の楯・日の鏡・熊の神籬(ひもろぎ)・胆狭浅(いささ)の大太刀あわせて八種類である。天皇は天日楯に、播磨の国の宍粟邑(しさわのむら)と、淡路島の出浅邑(いてきのむら)に住むように言うが、天日楯は、諸国を巡回してから決めると答えた。そして、天日楯は、菟道河(うじがわ)を遡って、近江の国の吾名邑(あなむら)に入ってしばらく住んだ。そこから若狭を経て、但馬の国に住んだ。
また、『古事記』には、次のような話がある。
新羅の国王の子、天(あめ)の日矛(ひぼこ)という者がおり、この人が渡ってきた。その理由は、次の通りである。
新羅国の阿具(あぐ)沼の辺で、ある賎しい女が昼寝をしていた。その時、日の光が虹のようにその女の陰部にさしたのを、ある賎しい男が怪しんでみていた。その女は、昼寝をしたときから妊娠して、赤い玉を生んだ。様子をみていた男が玉を譲り受けて、常に包んで腰につけていた。
この男が、谷間で田を耕作する人たちの食料を牛に負わせて山谷に入ったところ、天の日矛に会った。天の日矛はその男に、「おまえは、なぜ、食べ物を牛に背負わせて山谷に入るのか。きっとこの牛を殺して食うのだろう」といい、その男を捕えて牢に入れようとした。男が、「私には牛を殺す気はありません。ただ、農夫の食料を運んでいるだけです」といっても、天の日矛は許さなかったので、腰につけていた玉を天の日矛に献上した。天の日矛はその男を許し、玉を持ち帰り床の辺に置いたところ、美しい乙女となったので、妻とした。妻は、常に数々の珍味を作り夫に食べさせたが、天の日矛が奢って、妻をののしったので、「大体私は、あなたの妻になるべき女ではありません。私の祖先の国に行きます」と言って、ひそかに小船で逃げ渡って、難波についた。
そこで天の日矛が、妻を追って来て、難波に入ろうとすると、その海上の神が塞いで入れなかった。そこで但馬の国に船を泊め、その国に留まった。

天日楯の系統は、後に皇統と繋がる。『記紀』において「新羅征伐」の話で知られる神功皇后である。神功皇后は、母系をたどると、天日楯の六世孫にあたる。
神功皇后は『記紀』において、巫女的存在として描かれている。新羅征伐のきっかけとなったのは、皇后が神懸りをしてきいた神のお告げであり、また皇后は、肥前国で釣針を垂れて、神意を伺う占術をおこなっている。
さらに、もうひとつ興味深いことは、日本書紀の『神功紀』に、『魏志』倭人伝が引用されていることである。『日本書紀』の編者は、神功皇后を卑弥呼と考えていた、あるいは、卑弥呼と思わせようとしていた、とする指摘も多い。卑弥呼については、『魏志』倭人伝に、「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」という記載がある。鬼道とは、当時大陸で盛んであった、巫覡(ふげき)などを行う呪術、および呪術的宗教を指し、符や呪水といった呪術的方法を用いていた。この教えは道教の重要な柱となり展開する。神功皇后の実在性はともかく、このことから天日楯の一族と、鬼道、もしくは道教との関連性が見えてくる。
もう一人、天日楯の子孫である人物が、『記紀』に登場する。田道(たじま)守(もり)である。田道守は、『古事記』によれば天日楯から数えて五代目の子孫にあたる。彼は、垂仁天皇に、時を超越した「非時(ひじく)の香菓(かくのみ)」を海のかなたの常世の国で捜してくるように命じられる。十年後、田道守はこの実を持って帰国するが、天皇はすでに亡くなっていた。ここで注目すべきは、「非時の香菓」という思想である。これは、生死を超越した生存の可能性を考える「神仙説」の思想と共通する。事実、田道守自身が、「常世の国は、神仙の秘密の国」と語っている。そして、この神仙の神々を仰ぐ宗教として成立するのが道教なのである。
なぜ、垂仁天皇は、「非時の香菓」を捜すことを、但馬の国の国主である田道守に命じたのか。それは、天皇が田道守であれば、「非時の香菓」を捜すことができると確信したからであり、その理由は、田道守が天日楯の子孫であるということに他ならない。垂仁天皇、田道守の存在の有無は別として、『記紀』が編纂された時代、あるいはそれ以前から、天日楯一族は、神仙説、いいかえれば初期道教に通じた一族であるとの認識があったと考えていいだろう。
ここで忘れてならないのは、道教と、陰陽道の関係である。福永光司氏は「日本で古来、陰陽道とよばれている呪術的な道術も、道教の単なる一部分でしかない」と言っている。つまり、道教的祭祀をもつ人々が帰化し、その知識と技能を継承して、有能な陰陽師集団を形成したということは、充分考えられることなのである。

天日楯の伝承がある地域には、次のような共通点がある。兵主(ひょうず)神社という社が伝承地に一致して分布すること、秦氏居住地域がこれに重なること、金属精錬工人や須恵器製作工人の痕跡があることである。
天日楯の伝承と兵主(ひょうず)神社の分布の一致については、大和岩雄氏、内藤湖南氏、黛弘道氏などが指摘している。播磨国飾磨郡にも、射楯(いだて)兵主(ひょうず)神社がある。
この兵主神について内藤氏は、「兵主神とは泰山(たいざん)で封(ほう)禅(ぜん)をするさいに祀られている八神の一つである」と述べている。黛氏も、兵主(ひょうず)神に和訓がないので外来神と考え、この説を有力と見ている。
封禅とは、中国の帝王がその政治上の成功を天地に報告するため、山東省の泰山で行った国家的祭典のことである。『史記』封禅書には、天命を受けたうえで封禅は行われること、封禅を行うためには祥瑞(しょうずい)の出現が必要であることが述べられている。また、封禅には不死登仙の観念がともなっており、泰山は古くから鬼神の集まるところと考えられ、そこを天への通路とみなす信仰も存在した。このように、封禅の概念には、陰陽五行思想や道教の影響が認められる。つまり、泰山で封禅をするさいに祭られている兵主神を奉ずる天日楯一族は、このような思想と知識を持っていた人々といえるのである。また、後世日本において、陰陽道の最大の祭りの一つとなる泰山府君祭は、この泰山の神を祭るものである。

天日楯の伝承地と秦氏の居住地が重なることは、播磨国においても認められる。上田正昭氏は、「『播磨国風土記』によれば、天日矛の説話を有する地域は、秦氏の居住区とほぼ完全に重複し、播磨西部諸郡を占める」と述べている。
秦氏は、『日本書紀』によれば、応神天皇のとき、弓月(ゆづきの)君(きみ)が、百二〇県の人夫を率いて帰化した氏族とされる。大和の穴師坐(あなしにいます)兵主(ひょうず)神社は、古くは巻向山の一峰である弓月獄山頂付近にあった。日野昭氏、大和岩雄氏、内藤湖南氏は、秦氏始祖の弓月君と兵主神社があった弓月獄の関連性を指摘し、この地に秦氏系地名が多数存在することなどから、兵主神社は、秦氏が日本に持ち込んだとする説を唱えている。
秦氏の「ハタ」は、新羅語の海を表す言葉「パタ」に由来することが以前から指摘されており、また「秦」の字自体も新羅の前身の秦韓(辰韓)の意味であること、さらに、新羅、加羅人の伝承が秦氏の存在と完全に重複することなどから、「秦氏は新羅系の渡来人である」とするのが、今日の定説である。秦氏が新羅からきたとすると、天日楯伝承と秦氏の居住地域が一致していることや、秦氏が兵主神を祀る一族ということから、秦氏は天日楯の一族と考えて間違いないであろう。
『新撰姓氏録』では秦氏は秦始皇帝の後裔であるとする。現在では、秦氏は新羅系の帰化人とみなされているので、これは出自改変と解釈されている。しかし、秦氏が、山東の神である兵主神を祭っていることを考えれば、秦氏の大本は中国にあると考えてよいのではないだろうか。韓国には現在も秦姓の人がおり、本貫を中国の山東省にしていることを、大和岩雄氏が指摘している。また、黛弘道氏は、兵主神を祀る一族について、「山東の神が多く朝鮮に移住していることから、四世紀初めに楽浪・帯方二郡が滅亡した際に山東の神を信仰していた集団が、朝鮮に移住し、さらに日本に移住してきたのではないか」と述べており、このことから、天日楯一族の根源を古代中国にあるとみることができる。
秦氏は、養蚕、土木、金属精錬などの優れた技術者集団であり、大陸の先進文化を日本にもたらした。ということは、その科学技術の基礎理論であった陰陽五行説を熟知し、それを駆使できる能力を持っていた氏族であるといえる。後に、秦氏から秦貞連(はたのさだつら)や、秦文高などの陰陽頭がでているという事実が、このことを裏付けている。秦氏の例は、天日楯の一族が、日本においてどのような展開をみせるかを推測する根拠になる。

ここで問題となるのが、天日楯の通過地点と一致し、秦氏が日本にもたらしたともされる兵主神とはなにか、ということである。その答えは、『史記』の封禅書にあった。その中で兵主神は、山東八神―天主・地主・兵主・陽主・陰主・月主・日主・四時主―の一つとしてあげられ、また、「兵主とは蚩尤(しゆう)である」と記されているのである。
蚩尤とは、中国の神話に見える英雄神であり、黄帝とタク鹿(たくろく)(「タク」はさんずいに「豕」)の野に戦って戦死したとされる。貝塚茂樹氏は、蚩尤(しゆう)について、「頭の真中に角が生えている半獣半人の怪物で、砂と石、鉄石を食らう」と述べている。まさにこの神の姿は、「牛頭」天王である。(図参照)また、中国の古代の系譜集である『世本』の中には「蚩尤が兵つまり武器を創造した」とあり、その性格も素戔鳴尊と共通している。
さらに貝塚氏は「風を支配してきた蚩尤は、またふいごの技術によって青銅器の製造を行った部族の代表であり、この技術の発明者であり、古代において神秘的なふいごの用法、青銅器の秘密を知っている巫師の先祖と仰がれる人物であった」と述べている。
天日楯一族が祀っている兵主神が、巫師の先祖と仰がれる蚩尤であったことは、この一族の性格を決定づけている。さらには、蚩尤を通じて、天日楯一族と牛頭天王つまり素戔鳴尊が、完全に繋がった。
天日楯一族と牛頭天王の関連を裏付ける話が、先に上げた、『古事記』の中にある。天日楯が、男に「牛を殺して食うのだろう」といい、その男を捕えて牢に入れようとした、という箇所である。これだけでは、なぜ天日楯が怒ったのかが説明できず唐突な感じがするが、天日楯を兵主神つまり牛頭天王を祭る一族であるとすると、この謎が解けるのである。
また、天日楯の六世孫である神功皇后は、新羅征伐の際に、牛頭天王・素戔鳴尊を祭る、広峯神社に参拝している。このことも、天日楯族と牛頭天王の関係を示していると考えてもいいだろう。

以上をまとめると、次のようになる。
兵主神(蚩尤)=素戔鳴尊を信仰し、道教的祭祀をもつ天日楯族が、新羅から播磨国に渡来し、広峯山で素戔鳴尊である牛頭天王を祀った。彼らの子孫は占術、呪術などを継承して、播磨に有能な陰陽師集団を形成していった。
なぜ、他の地域の天日楯族の末裔が、陰陽師として活躍することがなかったかについての理由は、最初の渡来地が播磨であり、日本の文化と同化する以前にこの地域に根付いたこと、また、牛頭天王を祭った広峯神社が、播磨にあったことが推測される。

以上が、陰陽師と播磨の関係について、私が立てた仮説とその根拠である。当初は、素戔鳴尊と同じルートで播磨入りをした天日楯に興味を持ち、さまざまな資料を検討していったのであるが、その過程で、天日楯が祀っていた兵主神が蚩尤であり、それが牛頭天王・素戔鳴尊と結びついたときには、余りの符合に驚愕を覚えた。
また、『竜の柩』でキーワードとなる牡牛の神、つまり牛頭天王・素戔鳴尊の周辺を調べているうちに、興味深い発見もあった。それは、『竜の柩』で展開される高橋克彦神学論が、いかに真実性を持っているか、ということを実感させるものでもあった。次に、その例をあげてみる。
素戔鳴尊が、居住したといわれる新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)について、韓国の宗教文化研究所所長の崔俊植教授は、「ソシモリ」は地名ではなく、「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺん」の意味で、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意味だと説明している。また、「牛頭天王の「牛」は「ソ(シ)」という音に当たる漢字(牛)を当てはめただけだ、ということである。これから逆にいえることは、「牛」と「高い柱」という意味の言葉が、同じ音の「ソ(シ)」であることである。「高い柱」が何を意味するかは、『竜の棺』が物語っている。
また、新羅の建国神話に次のような話がある。新羅六村の人々が川の岸辺に集まって会議をしていると、楊山の林の中に光りと共に白馬と大卵が天降り、卵の中から神童が生まれた。彼は、赫居世(かくきょせい)(光輝く君)と名づけられ、新羅の始祖王となった。この話の中の、光と共に天降った大卵が何であるかは言うまでもない。
さらに蚩尤と戦った黄帝が参戦を命じたのが、「応竜」という翼のある竜である。蚩尤と黄帝の戦いからは、牡牛対竜という構図が導き出せる。
短期間で調べた資料の中にも、『竜の柩』の神の理論を支持する話が見つかるということは、その理論の正当性を示しているように思えてならない。
高橋克彦は、現代の覡(みこ)である。神と人とを仲立ちし、神の正体を我々に託宣する。そう考えてしまうほど、『竜の柩』は、真実性と説得性を持っている。なぜなら、『竜の柩』によって、さまざまな神話や伝説が、矛盾なく解き明かされてしまうからだ。


参考文献

『日本陰陽道史話』 村山修一(大阪書籍)
『陰陽道の本』(学研)
『神社と古代民間祭祀』 大和岩雄(白水社)
『別冊歴史読本 日本古代史「神話・伝説」の最前線』(新人物往来社)
『歴史と旅 日本古代史の一〇〇人』(秋田書店)
『別冊歴史読本 古事記 日本書紀の謎と真実』(新人物往来社)
『歴史読本 聖なる神社 謎の神々』(新人物往来社)
『歴史と旅 鎮魂の社と八百万の神々』(秋田書店)
『歴史と旅 神々の社と古代天王の謎』(秋田書店)
『兵庫史の謎』 春木一夫(神戸新聞総合出版センター)
『古代播磨の地名は語る 播磨風土記めぐり』谷川健一・監修(姫路文庫)
『アメノヒボコ』瀬戸谷 晧ほか(神戸新聞総合出版センター)
『世界大百科事典』(平凡社)

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